
神は笑う。(映画「鹿の国」を観て)
小説『アマテラスの暗号』を読んだのは、昨夏のこと。
読了したのは、盛夏の京都訪問の折だった。
祇園祭に沸く街の中で、日本という国を紐解く歴史ミステリーを読了したことは、はからずも因縁のように感じたわけだが、その作品の中でも特に胸のうちに引っかかっていたのが...
長野県の諏訪大社だった。
映画「鹿の国」
そんな日本最古の神社でもある諏訪大社の謎に包まれた神事を記録した映画が、民俗ドキュメンタリー作品にしては異例のヒットを記録している。
年始の公開当初から気になっていただけに、そのニュースに触れた時はやはり観に行かねばと思った。
ヒットの裏側には、そこに纏わる様々な伝説が、現代日本人のロマンを掻き立てているからだろう。
加えて私にとっては、これまでの人生で抱えてきた宗教観や死生観に対する複雑な想いを昇華させる一つの機会にも思えてならなかったのだ。
個人的な宗教観と死生観
国民の9割がイスラム教徒のインドネシアに5歳まで住んでいた私は、キリスト教徒の祖母と母の信仰心に触れて育ったバックグラウンドがある。
母の故郷がインドネシアであることもあり、日本へ帰国後も何度も同国へ渡航する機会があったわけだが、訪問先として幼心ながら強烈な印象を残したのはボロブドゥール遺跡だった。
なぜこの地に世界最大級の仏教寺院があるのだろうか。同遺跡のストューパの中に佇むブッダの姿は一際目を見張るものがあり、私の潜在意識の中に在り続けた。
私が高校に上がり、父が50歳でこの世を去った際、父はカトリックの死後洗礼を受けることになった。
生前、特定の神を信仰することはなかった父だったが、病床に伏している時「病気が治ったら洗礼を受けましょう」と母に促され快諾したのが背景だった。
当時は家族・親族一同、父が亡くなるとは思ってもみなかったが、みるみる容態は悪化し、入院してからわずか2週間もせずに息を引き取ったのだった。
洗礼を受けることを許諾した時の本人は、一体どのような心境だったのだろうか… おのが命の灯火が、いよいよ消え入りそうな時に感じた”カミ”の存在とは、どのようなものだったのだろうか…
亡き父への問い。
答えを見出すべく、その後はひたすら自分のとっての”カミ”を探し続けてきた。
しかし、その傷が癒えぬうちのことだった。
大学卒業の間際に、生まれて初めて愛した男が23歳の若さで急逝すると、いよいよ日常的な心の支えとして幾度となく十字架を切り、主の祈りやアヴェ・マリアの祈りを唱え続けることとなる。
ところが、それらの祈りをもってしても、カトリック教徒として洗礼を受ける決意が、この時分まで、出来ずにいる。
この世の森羅万象、すなわち”カミ” の姿を、かつてのこの国の人々がどのように見ていたのか。
今般、諏訪大社において古来より引き継がれてきた特有の神事に本作を通して触れることで、何か手掛かりになるものがあるのではと思った。
劇場に足を運ぶと...
フィルムは、諏訪の暮らしや習わしを連綿と受け継いで生きてきた地元民と四季折々の美しい生命たちの躍動を等身大に映し出していた。
自然と動物と人との関係から、やがてカミの姿を見出していった古代諏訪の人々は、周辺地域の精霊の総称を「ミシャグジ」と呼ぶようになり、独自の自然崇拝の形式を成り立たせていった。
しかし、諏訪信仰の象徴でもあるはずの「ミシャグジ」の呼び名が何種もあることからしても、諏訪大社にはいくつもの学説の矛盾や謎をはらむ神事が多く残されている。
例えば、中世頃までは鹿の生首を供物としていた御頭祭という神事(現在は剥製を使用)は、縄文時代からの土着信仰を起点とする学説では矛盾をはらんでいるし、加えて今日でも鹿の生肉や蛙などを供物とすることもその理由は謎に包まれている。途絶えてしまった数々のしきたりの中枢は恐らく口伝だったゆえに、正確なことは判然としない無念が残る。
それらは、まさに、私の中でいつもうごめく混沌とした何かと重なった。
だが、しかし、そういった人類の歴史がおりなす複雑な想念をも圧倒する ”目に見えない大いなる存在”が、常に、平然と、そこに、在り続けていた。

フィルムが無言で語っていたこと
野生の美しい鹿が群れをなし飛び跳ねる躍動感と真っ直ぐな眼差し。
他方、罠にかかった鹿の戦慄と流れる赤い血が川の流れと共に迸る。
あるいは、鹿の角や蛇や蛙や稲花、桜花のほころびなど、諏訪の大自然が織りなす生命エネルギー。
そして、諏訪湖周辺の自然に囲まれた暮らしの中で、諏訪信仰と共に、今を生きる人々。
移りゆく季節と共に無言で語られていたのは、伝説の謎に満ちたロマンティシズムではなく、諏訪のありふれた日常を支える偉大な “カミ” の存在だった。
映画に出演する僧侶の一人が語る。
「自然の摂理に対する畏怖のようなものを、人々は神や仏と呼んだのではないでしょうか。それぞれのもとは、同じものを感じているんだなと思っております。」
そう、映画の後半に描かれていたのは、明治政府による神仏分離令以来、150年ぶりに復活したという「諏訪講式」は、その象徴たるシーンだった。
あざやかな法衣に身を包んだ20名ほどの仏法紹隆寺の僧侶たちが、なんと、諏訪大社で読経するのだ。
僧侶らが諏訪大社の鳥居まで訪れた際、宮司がにこやかに出迎える景色や、僧侶らが上社本宮で読経しながら経本を両手で掲げあげ、宝前に捧げるが如く一斉にパラパラパラパラ....とページをめくる景色は、私の心を大きく揺さぶった。
神は笑う
本作における中心部分に、中世諏訪社の御室(みむろ)神事の再現があった。
御室神事とは、大祝(おおほうり)という生き神様役の少年始め子供と大人の10数名が、真冬の3カ月間を半地下の穴蔵にこもり、鹿の贄を食し、豊穣を願う神事と芸能のことであり、600年前に途絶えた謎の神事である。
研究者を中心に数少ない文献から手探りで再現していく時、特に印象的だったのは演目が喜劇であることだった。神様は笑いが好きだから、楽しんでいただくため、ということなのだ。
神事を司る様々な生き物をなぞらえた数々の演目はいずれも笑いを誘う舞であり、決してしめやかなものではなかった。長年謎とされてきた神事の姿としては、極めて朗らかで豊かな世界観であった。少年に神を降ろす設定からしてみて、てっきり奇奇怪怪的か或いは神秘的なものかと思いきや、である。
思い起こせば日本神話の天岩戸伝説でも、アメノウズメノミコトという女神が岩戸の前で踊り舞って神々を沸かせたお陰で、アマテラスを誘い出すことができたではないか。
(なるほど、神は笑う、か...)
スクリーンから映し出される神々(命の輝き)を前にして、断続的に流れ出る涙の情感が途端にチグハグなものになると、何やら心がむず痒くなる。
すると、おのが ”カミ” が、ひっそり、ニヤリとした気がした。