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『春と修羅』序文の解釈

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

『春と修羅』序文 宮沢賢治

わたしが大学時代に好きだった教授が授業で出した資料に、上記があったことをおぼえている。
たぶんこんなことを10年以上も好き好んで覚えてる人間などそんなにいなさそう。
ただ、現代的な感覚として、宮沢賢治もmbtiでいうところのINFJだと言われているなら多少わたしの内観に近いところがあるのかもしれない。
だから当時すべてを理解するに至らなくても気にはなったから記憶の片隅に居続けた?

そういうわけで、教授の当時の言葉も思い出しながら自己流の解釈といこう。わたし自身、当時よりは実感を伴った気がするから。

文章は『わたくしといふ現象は』と、始まる。
わたくし=現象と述べる。
あなたが現象という言葉からうける印象にどんなものがあるだろうか?

調べてみると、現れた形・すがた。ある物事が形をとって現れること、とある。
宮沢賢治は『わたくしといふ人間は』とは述べていない。
現象というのは、条件によっては表れも消えもする、もっとはかなくて頼りないもののように感じる。

それを言い表すように、『仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)』と続く。
仮定された有機交流電燈は、人の肉体を言い表しているようでなんとなくわかる。ひとつの青い照明、というのは人魂のことだろうか、とにかく魂のようなものだろう。
その後のカッコに入れられた、あらゆる透明な幽霊の複合体という言葉。
ひとつの青い照明(人の魂?心?)=あらゆる透明な幽霊の複合体である。

これがわたしはなんとなく実感できる。
できた、が正しく、いつもそうかと言われたら違う。

方法は、心に浮かんだ言葉で自分と対話すること。チャットのように。
他者は挟まない。思い浮かぶままに書き連ね、素直な言葉で自分と対話をする。一人称が変わろうが、理性で考えたら何いってんだか、な内容でも内観から浮かび上がってくる言葉をとにかく書き出してみる。と、己の中身が見えてくる。
1回だけではなく、日をかえて何回もする。と、性格や一人称が統一されておらず、自分の中にはひとりではなく、何人かの透明な幽霊(意識?魂?)がいるように感じられる。
性別も男性女性両方いる。何人居るかというのが重要なわけではなく、自分のなかには男性性、女性性の両方があるんだな、と認めることのほうが重要な気がする。わたしは4人ぐらい居そうだが。

これはもしかしたら鏡に向かって自分に話しかけるのに似たものがあるのかもしれない。したことないけど。

幽霊は複合体になってわたしを現している。
心や魂といったものはとにかく人間の心臓や脳といった内部にある物体に宿っていると思われがちだけれど、意外と外の見えない部分で幽霊のように漂っているのかもしれない。
まあ、脳で考えて言葉を吐いてるだろうと言われたら微妙か。
だから、文字を書き連ねる際に考えるのではなく考えない、無意識に任せるのが大事だとは思うけれど。

続く文章は、有機交流電燈から因果交流電燈と言い換えられ展開していく。
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
電燈(肉体)はなくなっても、ひかり(魂)はたもたれる。わたしという肉体がなくなっても、魂はあり続けるということだろうか。
わたしに集った幽霊の複合体はまたばらばらになって、新しい電燈に宿る。そのときには電燈名としてのわたし、○○○(個人名)としてではないのだろうけど。


こんな感じの解釈。世界観ともいう?
文学的とも心理学的ともスピリチュアルともつかない曖昧な文章だと思うけど、これ以上の説明はわからない。ので、これでおわっとく。

わたしの書いてることわからなくていいので(わたしもよくわかってない)、気になったら心の隅にでも残しておいて、あなたの生きている過程で実感が伴ったときに思い出してくれたらうれしく思う。
書いてて思うがそんなことあるのか...?
まあきっと、こういうものの見方もあるよって話です。

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