あれから10年。
10年前、忘れもしない2011年3月11日。
私は中学の卒業式を明日に控え、学校から早く帰ってきた。友達の家にポケモンの漫画を貸しに行ってそのまま一緒に遊ぶ約束をしていた。自転車のカゴに漫画をいっぱい詰めた袋を入れて、家を出て自転車に跨った瞬間だった。
ケータイがなんか鳴ってる。
最初はよく聞こえなくて誰かから電話かと思った。でも画面を開くと緊急地震速報の文字が。今までだって地震なんて何回も来たことあるしその度に確かに怖かったけどこんなことは初めて。えー?そんな大きいの来るの?なんてことを考えていた瞬間ゴゴゴゴという地響きとともに私は立っていられなくなって自転車から手を離した。地面に散らばるポケモンの漫画を拾う余裕なんてなかった。
地面が波打つあの感覚、空気までもが震える感覚は今でもよく覚えている。永遠に降りられないトランポリンの上でずっと揺さぶられているような嫌な感じ。あの地震速報の音も大嫌いになった。バイブ設定にしていなくてもその大きさでケータイが震えるくらいの音量と不協和音。聞くと今でも鳥肌が立つ。
揺れたとき知らないおばさん(揺れがおさまったあと相手は実はご近所に住んでいて私のことを◯◯さんの娘ということで知っていたことを教えてくれた)が向こうから歩いてきていて、私のところまできたときちょうど揺れが始まったので思わず2人で手を取り合ってしゃがんだ。側に佐川急便のトラックも止まっていて、揺れている途中で中からはいつもうちに届けに来てくれるお兄さんが出てきて3人でとにかくしゃがんでおさまるのを待った。全然終わらない。長い、長すぎる。
たぶん、必死に怖いよとか明日卒業式なのにとかやだやだやだとか叫んだと思う。2人は大丈夫だよってもう少しだからって励ましてくれた。振り返ってみると誰かがそばにいてくれることってこんなにも救われることなのだと思う。あのとき1人でいたらどうなっていたのだろう。想像もしたくない。2人にはあれっきり会っていない。今もし会えるのならば直接お礼を言いたい。
しゃがんでいた場所の道路を挟んで向かい側にホテルがあるんだけど壁がどんどん崩れて落ちている。どんどん人も出てくる。私たちの周りには崩れてくるものはなくてただただその気持ちの悪い永遠に続きそうな揺れに耐えるだけで済んだ。だけ、と言ったもののそれがもうトラウマなのだが。でも私よりつらい思いをした人、している人はごまんといる。それを10年経っても忘れてはいけない。
揺れがようやくおさまって2人とわかれてから、漫画を拾い自転車をとりあえず家に戻して、とりあえず親の仕事場に猛ダッシュした。また揺れたらどうしようとかみんなは無事だろうかとかとにかくこれはただごとじゃない、大変なことになった、地球は終わってしまうのかな、そんなことを考えながら走った。歩いて5分で着く距離だけどとても遠く感じた。幸いにもビルは崩れていなくて、親含め職場のみんながちょうど建物の外に出てきているときだった。
よかった。その感情以外なかった。
たぶんケータイのワンセグでニュースを一瞬だけみて、大津波警報というものを初めてみた。日本の地図がピンクに縁取られていて、そんな色今までみたことなかった。いつも地震が来ても津波の心配はありませんってアナウンサーが常套句のようにいうから、本当にまさかくるなんてそのときは思っていなくてそのままバッテリーがなくならないように見るのをやめた。
外はだんだん嫌な予感を知らせるかのように3月なのに雪。寒くて心細くて、友達にも会えなくなって明日の卒業式もきっとなくなって、もうできなくなって、これからどうなるんだろう、高校に行けるのかな、人間って無力だな。何回も来る余震。最初の揺れの感覚がまだ残ってて船の上で揺られてるようで怖くて怖くてしょうがなかった。まだこのときは津波で沿岸が大変なことになっているなんて知らずにそのまま親の職場の一部のスペースにあるソファで一夜を明かした。
早く朝が来てほしい、そんなことを考えながら夜中に一回外に出たとき、空が綺麗だった。電気が止まってビルの灯りも何もなくて真っ暗。星がよく見えた。いつもそんなに気にしたことなかったのに。皮肉だ。
県庁で見ず知らずのおじいちゃんおばあちゃんの話し相手をしたり食料を調達しに行ったりケータイの充電をするために並んだり私は抜け殻になってしまっていたからそれくらいしかできなかったけどとにかくみんな生きるのに必死だった。
NHKまでテレビをみにいったときに目に入ってきた津波の映像は嘘だと言いたくなるくらい言葉を失わせた。知っている町が車が人がどんどん飲み込まれていくあの光景はつらい。私も知り合いを亡くした。岩手のアナウンサーが何やってんだよテレビ朝日!と感情をあらわにしていたけど、そう言いたくなる気持ちが若干15歳の私でも痛いほどわかった。冷静にしようと思ったって無理だった。
結局卒業式は遅れて開催され、当時私は生徒会長をしていたから答辞を読むことになっていたのだが、震災仕様に変えてほしいと先生に言われて全部書きかえた。手書きで、筆ペンで、最初から全部。後にも先にも答辞が2つある年度はこのときしかない。
3月23日、私が答辞を読んでいるとき体育館に静かに響いていた誰かのすすり泣く声が今も耳に残っている。
そんな日々を超えて私は今も生きている。
あれから10年だってさ。どんどん震災を実際には知らない世代も増えている。でも10年だから何なんだろう。それで復興が終わるわけでもないし亡くなった人たちが生き返るわけでもない。
やっぱり3月11日は私にとって本当に忘れられない日で忘れてはいけない日。何気なく普段は過ごしてしまっていてもやっぱり思い出すと胸が痛いしこんなに鮮明に書き連ねられるほどフラッシュバックする。
初めにも言ったが、私なんかよりもっと苦しい思いをした人はたくさんいるだろうし、まだまだ大変な思いをしている人もいる。でも、一人ひとりの気持ちを全て推し量ることは難しくても手を差し伸べられる部分もあるはずだ。私もこの春大学を卒業し、4月から社会人として働く。大きなことをいうつもりはないけれど誰かの心に寄り添えるようにその役割を全うしたい。綺麗事かもしれない、でもこれが本心だ。
当たり前の日々に感謝しながら、これ以上誰かが悲しむことのない世界になることを祈って。