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心に住む海

私たちは、海がすぐ近くにある場所で産まれ、育った。

おじいちゃんちは我が家よりもさらに海に近く、もはやプライベートビーチで、私たちはそこを“おじいちゃんの海”と呼んでいた。

子どもの頃から、夏の休日はいつもおじいちゃんちへ行って、おじいちゃんと一緒に海で泳いだ。

おじいちゃんはそんな私たち以上に海を愛していて、私たちが来ない日も毎日1人で海で泳いでいた。

海の中をクロールしたり、平泳ぎしたり、背泳ぎしたり。

私たちがあとから海へ駆けつけた時は、海の中から弾ける笑顔でこちらに手を振ってくれた。

そんなおじいちゃんが大好きだったし、おじいちゃんと海へ行くのも大好きだった。

海からあがって、ビショビショの水着姿のまま歩いておじいちゃんちへ帰ると、おばあちゃんがベビーバスに温かいお湯を溜めて待っていてくれた。

そこに入って、海水や砂を落として、体を温める。
至福の時間。

そして、お風呂からあがって、おばあちゃんが作ってくれた晩ご飯をみんなで食べる。

まだ外は明るくて、ミーンミンミンとセミの声が聞こえる中、さっぱりした気分で食べる晩ご飯の時間が、私はとても好きだった。

その光景を思い浮かべると、1番に思い出すのが『茄子の田楽』だ。
茄子の田楽は、私の大好物だった。

それと、おばあちゃんが趣味で育てていたたくさんのお花の中の1つの、オレンジ色のほおずき。
綺麗な赤オレンジ色の袋の中に、ミニトマトみたいなかわいい実が入っていた。
食べたことはないと思うけど、よく飾られていたからか、とても記憶に残っている。


私は長女で、妹と弟がいたが、きょうだいの中でも1番おじいちゃんおばあちゃんっこだったと思う。

よく1人でお泊まりにも行っていた。

優しくて面白くて、孫と全力で遊んでくれるおじいちゃん(中でも馬跳びが楽しすぎて、いつもお腹がちぎれるくらい笑ってた)と、美味しいご飯を作っていろんなお話をしてくれるおばあちゃんが大好きだった。

特に、私たち孫を見て微笑むおじいちゃんの笑顔からは、子ども心にも『本当に私たちのことが愛しいんだなぁ〜』と伝わってくるくらいに優しくて、仏様みたいだった。



そんな可愛い孫はだんだんと大きくなり、おじいちゃんちに遊びに行くこともうんと減った。

おじいちゃんと一緒に毎年泳ぎに行っていた海にも友達と行くようになり、そこでおじいちゃんに会うのも嫌で、ちょっと遠くのオシャレな若者が集うような華やかな海に行ったりもした。



そして、私が高校生になった頃。

父と大げんかして、家出をしたことがあった。

家出と言っても他に行くところもないので、おじいちゃんちにしばらく住まわせてもらうことにした。

私の実家からおじいちゃんちは、自転車で30分弱くらいの距離で、なんなら通っていた高校にもおじいちゃんちからの方が近かった。

私は毎日学校が終わると、一度実家に帰って、自転車のカゴやリュックに入るだけの荷物を持って、おじいちゃんちへと運んだ。

父のいない時間に、せっせと毎日少しずつ荷物を運んでいた。

そしてそのプチ家出生活が始まって1ヶ月ほど経った頃。

初めは、おじいちゃんもおばあちゃんも嬉しそうにしてくれていたけれど、おばあちゃんは毎日お弁当を作ってくれたり、私の帰りがちょっとでも遅いと心配したり、心身共に疲弊してきてしまったらしく、最後は父に『早く迎えに来て』とヘルプがあったようだ。笑

その要請のおかげで私と父も一応“和解”という形におさまったのだけれど。

あの1ヶ月間で、おじいちゃんとおばあちゃん側も、私も、小さい頃とはやっぱり違うギャップのようなものを感じたし、お互いに適度な距離は必要だと実感した時間だった気がする。


当時はまだ携帯などなく、ポケベルを愛用していた時代だ。

学校から帰ると、友達や彼氏とポケベルのカタカナ12文字で延々やり取りをしていたのだけれど、おじいちゃんちの電話はなんてったって黒電話。

確か、黒電話でもベル打ちできないことはなかった気がするが…

それでもいちいち、ジーコ、ジーコ、とダイヤルを回して打つのは時間もかかるし、おじいちゃんたちの目も気になるので、裏の海の前にある公衆電話でずっとポケベルを打っていた。

そんな私の様子を見て、『不良になった…』と2人が深刻に話しているのも何度か聞いたし、それに対して『ウザい』と思ってしまう自分がいたり…。

そんなわけで、私のプチ家出はあっけなく終了したのだった。




それから高校を卒業し、私は地元を離れて大阪の短大に入学。

夢の一人暮らしが始まった。

おじいちゃんとおばあちゃんからは毎週土曜日
の夕方に必ず電話がかかってきた。

高校卒業と短大入学のお祝いに、両親が買ってくれた初めての携帯電話に。

おじいちゃんたちはメールなどできるはずもなく、必ず週に1回電話をかけてきた。

土曜日の夕方というと、大抵友達や彼氏と外にいたが、そんな時でも電話を無視することはできず、どんな時でも私は電話に出た。

外はうるさい上に、おじいちゃんは耳が遠く、私はいつも大声で必死に話す。

この電話が少し負担であったことも嘘ではないが、これでおじいちゃんとおばあちゃんが安心してくれるならと、祖父母孝行している気持ちで応えていた。


何度か私が住むアパートに泊まりに来たこともあった。

おじいちゃんが1人で突然泊まりに来たこともあった。

さすがに連絡もなしに突然は勘弁、と思ってしまったけど、ちょうど学校の課題に追われて大忙しだった私はちっともおじいちゃんに構ってあげられなかった。

それでも「いんやいんや」と、ニコニコ嬉しそうに私のベッドで寝ているおじいちゃんが可愛くて、翌日元気に帰っていく姿に少し胸が切なくなった。



短大を卒業し、そのまま大阪で就職した私。

そしてその何年か後、私は結婚して地元に戻った。

そして長女が産まれた。

長女が産まれてしばらく経ったある日、おじいちゃんが言った。

『ワシはひ孫はそりゃもちろん可愛いやろうけど、それでもあんたらより可愛いなんてことはないやろうと思っとった。そやけど、やっぱり産まれてみると…こんなに可愛いもんなんやなぁ〜って、びっくりしとるんや。』

と、いつもの仏様みたいなシワシワの笑顔で。

大好きなおじいちゃんに、ひ孫を抱っこさせてあげられてよかった。

少し緊張した顔で長女を抱っこするおじいちゃんの写真は、今も私の宝物だ。



そんな無償の愛をくれるおじいちゃんを傷つけてしまったこともあった。

その当時のことを思い出すと今でも胸が苦しくて涙が出る。

私が連れてきた人が、私の大切なおじいちゃんにひどいことを言った。

ほんの少しの期間だったが、おじいちゃんちに住まわせてもらっていたことがあったのだ。

2度目の居候。


言う前に『言うよ?』と確認されたのに。

本当は嫌で仕方なかったのに、言えなかった。

『やめて』と。

私の心は張り裂けそうだった。

あんなに優しいおじいちゃんに、あんな悲しい顔をさせてしまった後悔は、一生消えることはない。

自分の心に嘘をついて、守るべき人を間違えてしまった。

あの時の自分が大嫌いだ。

この後悔は一生背負って生きていく。

そんなこと、おじいちゃんはきっと喜ばないだろうけど、それでもそれが私にできる唯一の償いだから…。





そうして2度目の居候生活も終わりを迎え、おじいちゃんちを出ることになった。

その日の前日、私は精一杯の『大好き』を込めて、おじいちゃんに手紙を書いた。

恥ずかしくて口で伝えることできなかったから。

“ごめんね”と“ありがとう”と、“小さい頃からずっとずっと、今も変わらずおじいちゃんが大好き”の気持ちを、手紙に託して置いてきた。


あとで母から、おじいちゃんが手紙を読んで泣いていたと聞いた。

それを聞いて、私もまた、泣いた。




おじいちゃんちを出てからも、おじいちゃんとは一緒にご飯を食べに行ったり、旅行に行ったり、たくさん遊んだ。

おばあちゃんは数年前に体を悪くして施設に入っていたけど、そこにもおじいちゃんと一緒によく会いに行った。

おじいちゃんは車の免許を持っていなかったので、少し遠い場所に行きたい時は、よく私たち孫が運転して連れて行ってあげていた。

一度、ちょうど桜が満開だった時、ふと思いついて道中に私のお気に入りの桜並木に寄り道し、通り抜けしたことがあった。

私にとっては特に深い意味もなく、完全に思いつきで通ってみただけだったのだけれど、そのことをおじいちゃんはえらく喜んでくれていたらしい。

思いがけなくおじいちゃん孝行ができて、私も嬉しくなった。


今も毎年、あの桜並木が満開になると、嬉しそうな笑顔のおじいちゃんを想う。





それから、次女が産まれ、おじいちゃんは2人目のひ孫にも会えた。

次女がまだお腹の中にいる時、長女と散歩から帰った私が、長女のポポちゃん人形を持ってるのを見て、目と口を大きく開けて立ち尽くしているおじいちゃん。

「う、う、うまれたんか…!!!」

と真剣な眼差しで驚くおじいちゃんが愛おしすぎたエピソードだ。

まさか散歩中にその辺で出産したはずなかろう。笑





お茶目で面白くて、楽しいことが大好きで、仏のように優しい、みんなから愛されたおじいちゃん。


そんなおじいちゃんとのお別れ…。


これまでの人生の中で、こんな悲しいことがあるのかと絶望するくらい、悲しかった。

もう二度と会えないなんて…受け入れられなかった。




おじいちゃんの命日は、3月9日。

レミオロメンの名曲『3月9日』は、私にとってはおじいちゃんの歌だ。


“瞳を閉じればあなたが  まぶたの裏にいることで

どれほど強くなれたでしょう”


不思議と、目を閉じるとはっきりとおじいちゃんの笑顔が見える。

私たちがおじいちゃんちから帰る時に、駐車場の横の勝手口から出てきて必ず見送ってくれた。

私の車が見えなくなるまで、ずーっと手を振ってくれていた、あのニコニコ笑顔。

あの笑顔が今でもずっと、私のまぶたの裏にくっついている。

目を閉じればいつでも会える。

おじいちゃん。




おじいちゃんの生前の希望で、おじいちゃんのお骨を、おじいちゃんの愛した海に撒いた。

家族みんなで船に乗って、海の真ん中でおじいちゃんのお骨を撒いた。

太陽の光に照らされて、おじいちゃんが水面でキラキラしていた。





そして今、私はかつて2度居候させてもらった、おじいちゃんの家で暮らしている。

おじいちゃんが亡くなり、その後すぐにおばあちゃんも亡くなった。

パートナーの死から3年以内に亡くなる夫婦は、とても仲の良い夫婦なんだそうだ。

おばあちゃんは施設に入ってからも、いつでもおじいちゃんのことばかり心配して気にかけていた。

おじいちゃんが居ない世界は寂しすぎたのかな…。

またすぐに会えてよかったね。





おじいちゃんもおばあちゃんも居なくなり、主を失った屋敷を建て替え、今は私たち家族がここに住んでいる。


娘たちが小さい頃は、夏は毎日のように“おじいちゃんの海”に泳ぎに行った。

私がおじいちゃんと行っていた時と同じように、みんなで水着のまま、手に浮き輪を持って並んで海まで歩く。

ひとしきり泳いで疲れたら、ビショビショのまま歩いて家まで帰り、お風呂に入ってご飯を食べてお昼寝。

最高のコースだ。

泳ぎに行かない日も、お散歩に行ったり、幼稚園の帰りに砂遊びをしたり、晩ご飯を食べ終わってから花火をやりに行ったり、私たちの暮らしにはいつも“おじいちゃんの海”があった。



娘たちはどんどん大きくなる。

長女が小学校3年生の時に、1匹目のわんこをお迎えした。

それからは“おじいちゃんの海”はわんことのお散歩コースにもなった。

お友達と海で遊んだり、小学校の遠泳大会なんかもこの海で行われた。



さらに大きくなると、この海で彼氏とデートしたり、友達と青春したり、ずっとずっと娘たちの成長を見守ってくれた“おじいちゃんの海”。



私自身の人生から、第2の人生とも言える娘たちの人生に渡り、本当に数え切れないくらいの思い出に溢れている、この大切な海。


だけど…



ずっと近くにありすぎて、この変わり映えのしない景色にうんざりしてしまうことも正直あった。


来る日も来る日も、同じ景色の中を日課のようにお散歩する日々。

美しいサンセットも、もう見飽きてしまった。

洗濯物を干す時にベランダから見える海。

私はこの先も一生ここで、この景色を見続けるのだろうか。

どうしてまたここに戻ってきてしまったのだろう。

どこか遠くに行きたい。

ここではない、どこかへ。

なんて…。

そんなことばかり考えてしまう自分がいたこともあった。


だけど、そんな想いを抱えながらもまた、そんな自分を癒してくれるのもやっぱりこの海で…。







その答えはまだわからないし、今もまだ、人生を迷いながら日々をなんとか懸命に生きている。

ただひとつわかることは、最後に帰ってくる場所は、絶対にここだということ。


面白そうなことを探して、楽しい冒険をするのが大好きだったおじいちゃんの血を確実に受け継いでいる私。

娘たちも広い世界に羽ばたいていく今、私もまだまだこれからワクワクすることを見つけたい。


まだ見たことのない景色をたくさん見に行きたい。


いつでもこの場所で、私たちの大切な思い出を抱きしめて待ってくれている“おじいちゃんの海”がある限り、安心してどこにでも飛んで行ける。


私たち家族みんな、この海が大好き。

この家が大好き。

どんな時もずっとずっと側で優しく笑ってくれていてありがとう。




これから先も、また心がどんより曇り空になることも何度もあるだろう。

だけど、大丈夫。

だって私の原点はやっぱりここだから。

おじいちゃんと泳いだ、お日様でキラキラ光る海。

あったかくてしょっぱい、おじいちゃんの海。











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