敬語に宿る力と、それでもタメ口で話をしたいこと
いつも読んでくれている方は気づいているかもしれないけれど、インスタとnote の文章を敬語で書くのをやめた。
今回の屋久島の旅では、初めましての人や”ヨガの先生””ガイドさん”という立場の人とも、どんな年齢でも、全員タメ口で話すというゆるいルールがあった。
文章だとそうでもないのだけれど、私はタメ口で喋るとなんだか幼い感じになる。
屋久島の山を登っている間に自分の中に隠れていた子供と出会ったし、もしかしたらずっと子供のままだったのに、敬語で喋ることで大人社会とのバランスをとっていたのかもしれない。
タメ口で話すと、みんなとぐっと距離が近づいた。
幼い、本来の自分で通い合うことができた。
あたたかく、心地よかった。
だから、このnoteでも敬語はやめることにした。
今までの記事も、実はタメ口で下書きをして後から敬語に直すこともよくあったから。
これからもっと身近な気持ちで読んでもらえたら嬉しいな。
◯
ところで、しばらく英語圏で生活して感じていたことなんだけれど、英語で話していると人と仲良くなりやすい気がする。
その由のひとつが、英語には敬語がないことなんじゃないかと思う。
もちろん、「丁寧な言い回し」は存在する。
それでも、日本語の「です・ます」みたいに一文一文に敬語を意識することはない。
それに、「~さん」「~先生」みたいな敬称がないから、名前を呼ぶ時は普通はファーストネームを呼び捨てかニックネーム。
そもそも、語彙からフラットだ。
「先輩」「後輩」にあたる語彙がないから、これを英語で言おうとすると職場なら「Co-worker(=同僚)」、職場外なら「Friend(=友達)」というところになる。
どんなに歳が離れていても、「Friend」だ。
Friendと呼んでしまうと、心理的な距離はグッと縮まるよね。
もともとスーパー人見知り&繊細ジャパニーズな私は、この壁の薄い言語のおかげで人との距離が近くなれたと思う。
この前のハグの記事ともリンクするけれど、そういうことを体感てみしたいというのが、私が昔から英語圏の国に惹かれていたいちばんの理由だった。
とはいえ、「敬語をなくしてしまおう!」という乱暴な話ではない。
日本語は世界の中でも特別な力を秘めた言語。
敬語にだって、丁寧に聞こえること以上の意味があるはず。
そのひとつが、「結界」じゃないかと思う。
日本には結界がたくさんある。
わかりやすいところでは、神社仏閣のしめ縄や鳥居。
日常の中では扇子や暖簾、お箸など。
そして、敬語も目に見えないある種の結界だと思うんだ。
相手を敬う意味で、しめ縄のように自分と相手の間に置く言葉の結界。
お互いにわかりやすく敬意を表せて、すべての中に神様を見る日本人ならではの道具のように思う。
あるいは、踏み込んでほしくない相手との間に置けば、やんわりと自分を護る結界にもなってくれる。
結界を張れるからこそ、それが解けたときに一気に心がほどけたりもする。
内と外に隔てていたものが、内側に流れ込んでくるような。
敬語をやめた途端に、ほっと気を許せるようになることがある。
もしくは、安心できる相手だと感じていると気がついたらタメ口で話していた、なんてこともある。
タメ口で話していると、相手のことも自分のことももっと好きになれる。
そこには隔てるものがないから。
敬語は意識して遣いこなしながら、なるべくみんなが敬語を忘れちゃうような、素のままの自分でありたいなと思う。