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裸足の山登りから、私たちは存在しているだけで誰かの支えになっているというメッセージ

屋久島の山を登った。
往復約8km弱のコースだ。

ガイドをしてくれた13歳の ”リアルもののけ姫” が、まるで野生動物のようにすいすいと登っていく後を、ついていく。
今までしたことのある登山では体力を保つために一歩一歩ゆっくりと登っていたから、こんなペースでは途中でバテてしまうかと思いきや、楽しくなって、登っていくにつれてむしろ元気になっていった。

島についてから今朝まで、東京での忙しい日々で疲れた心身と、屋久島の大自然のエネルギーのチューニングが合わずに不協和音のような頭痛がしていたけれど、気がついたら消え去っていた。


標高1000m付近〜1260mのトレッキング。


途中から、もっと森を感じるために登山靴を脱ぎ、裸足になった。
ごつごつと尖った石を踏むと痛いけれど、ふかふかに積もった落ち葉やつるりとした木の根っこは、足の裏にやさしい。


裸足で山を登ると森をずっと深く感じることができた。


地面や岩、木の根を足でしっかりと掴むことができるから、意外にも、靴を履いているときより登りやすい。
体が軽く感じ、思考は無く、ただ登ることだけに夢中になる。


進むにつれて、登山道は獣道のように狭く急になってゆく。
ずんずん登っていると、木や石たちが、「私を支えにして。」「私を踏み場にするといいよ。」と向こうから教えてくれた。
どこを掴み、どこを踏んで行くと進みやすいのか、迷ったり考えたりする隙はほとんどなかった。


足の裏が痛くないように踏み場には注意していたけれど、足元に生える小さな杉の赤ちゃんのトゲトゲした葉っぱに足の甲をひっかかれ、血が滲む。「窮鼠猫を噛む」だ。


面白いなと感じたのは、急勾配で足場の悪いところでも、細い木の枝や幹に軽く触れるだけでバランスが取れる場面が多々あったこと。
太い幹をがっちりと掴んで体重をかけなくても、支えになってくれた。

木は、人間を支えようと手を伸ばしてくれるわけじゃないし、支えるためにそこに立っているわけでもない。
けれど、ただそこにいてくれるだけで、とっても支えになってくれるんだ。



人間社会を生きていると、「役に立たなきゃ」「相手のためにならなきゃ」って、大したキャパシティもないのに何かアクションを起こさなければいけないような、焦りにも似た気持ちになることがよくある。

でも、私にとって、価値観が食い違っていても最終的には帰れる場所でいてくれる家族や、長いこと会えていないし年に数回も連絡を取らないけれどまた会えると信じられる友人が存在してくれていることが、ふとしたときの心の支えになっている。

届いているかわからないけれど、本当にありがとうと伝えたい。
あなたが存在しているだけで、私はとっても救われているんだ。


そしてきっと、自分だって、存在しているだけで誰かの支えになれているはずだから、もっと肩の力を抜いて存在したいと思う。


人間、植物、動物、細菌、生きとし生けるものすべて。
存在しているだけで、支え合っているんだ。



ゴールの大和杉。太さが伝わらない写真になってしまったけれど、樹齢4000年の大木。


幹の一部。どれだけの命を支え、支えられてきたのだろう。



Lokha Samastah Sukinho Bhavantu.



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