2825
毎回、ほんの少しだけ緊張する。
「いつもありがとうございます。吉田様」
今までの宿泊履歴が確認できるのだろう、いつものようにパソコンを操作しながらフロントの女性スタッフが私に言った。
自分の名前ではないのに「吉田です。チェックインお願いします。」と名乗っているんだから当然のことで、
ここ界隈ならグレードも料金も上から数えた方が断然早い立派なホテルのフロントで、彼の名字で呼ばれ、妻であるかのように錯覚できるこの瞬間が、たまらなく気に入っていた。
「お二人様で承っております。本日からご一泊ですね」
「はい」
見たこともない彼の奥さんはこんな感じかな、と精一杯大人の女性のフリをして微笑んだ。
だけどそもそも、夫婦なら別々にチェックインはしないだろう。
A4サイズも入らないルイヴィトンのハンドバッグでは、旅行中か出張中に別行動する夫婦ではなく、仕事帰りのお気楽OLが逢瀬しに来たんだろう、と、きっと見透かされている。
いつも、そうなのだから。
宿泊履歴に、たぶんそれも書かれているんだろうから。
「お部屋は2825室です。ごゆっくりどうぞ」
いつものやりとりを終えて、カードキーを2枚受け取る。すれ違うホテルのスタッフが会釈をしてくる。いちいちそれに微笑み返す。なるべく優雅に見えるように、ゆっくりとエレベーターに乗った。
物足りなかった。
このまま、誰かの妻であるだけの人生が、とても物足りなく感じた。今後、母親になることよりも、圧倒的に女でいることを選んでしまうのが自分でもよくわかる。
「子供を持つ自分」が想像できなくなった。まだ、誰にも話せていない。
私が子供を欲しくないのは、これ以上自分の罪を増やしたくないからだ。
いつか、タイムリミットが来るのはわかってる。
本気で死んでもいいと思うほどの幸福と快楽を、手放さなくちゃいけなくなる時が。
部屋に着いて、彼が来るまでの数十分のあいだ、シャワーを浴びて歯磨きし、ゆるく髪を巻く。浮いたファンデーションをティッシュで押さえてアイラインを引き直す。
「あと5分で着くよ」
「お部屋は2825室です。待ってます。」
逢う直前だけはメールが短文になる。
強く残らないように、香水は付けずに軽くボディミストを振って仕上げる。口紅かラメのグロスを塗りたいけど、彼の唇に色が移らないように透明のリップクリームだけにする。
鏡の中の自分を何度も何度も確認する。最高の状態で彼に愛してもらえるように。
一緒に暮らせるはずもない、月に数回程度、平日の夜にしか会えない、旅行は1回だけ。
それでも、それでも、それでも。
この恋は活字にしなければいけないと思った。
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