雑記 2023.06.05
いま私は特に何もせずに、のんべんだらりと生活している。
そうやって生活できているのも、そもそも実家が太いから、しかも相続できる系だから、というありがたい理由があってこそなのだが、他にも理由がある。
この数年めっちゃ疲れやすいのである。
私は元来、人に気をつかい過ぎる。きっと仲の悪い両親の顔色をずっと窺って生活してきた子供時代のせいだなと思うのだが、他人がいるとどうにも自分を過剰につくってしまうし、間違ってはいけない嫌われてはいけないと思って接してしまう、完璧主義の母の影響だろう。
東洋医学では、人に気をつかうことで気は消耗されると話す。気疲れとは気を消耗しすぎた結果で、元気な人というのは気に満ち溢れた状態である。例えば空気の気も自然から生まれた気だし、人と話すことで気を交換し合えたりもする。だからお散歩したら少し身体が楽になったり、人に会うとなんとなく気持ちが軽くなったりする。
人に気をつかい過ぎる私は、当然気の消耗が激しい。気の消耗が激しいとどうなるかというと、まぁやる気がなくなる。好きなことですら手につかなくなる。多分これがもっと進んでいくと鬱状態になるのだと思う。若いうちは気力でカバーできることも多かった。ナニクソ根性で内から湧き出る何らかのパワーでどうにかなってきたのだが、30過ぎるとそうもいかなくなってくる。
ついこの間まで、専門学校に通って学生をしていた。
私は元々学校が嫌いで、右へならえの雰囲気や頭の固い先生方、何のためにあるのか分からない授業やテストで優劣つけられる感じ、出るもの杭を打たれる感じなど、苦手な要素は尽きないのだが、それが分かっていてまた学校に通ってしまった。
30代になって学校に通い分かったことは、いま挙げた苦手な要素以上に、同じ部屋に人が大勢いる状態がかなり辛いということ。私の中の、完璧主義の母から受け継いでしまった”ちゃんとしてなくちゃセンサー”が働いてしまい、これが疲れて仕方がないのだ。
ちゃんとしてなくちゃ、と思うので、授業中もしっかり先生の話を聞いて相槌をうってあげたり、クラスメイトと会話をしていてもなんでか気の利いたことを言わなければと思ってしまったり、悪い癖だなともう分かっていたし、3年も居て慣れてくるとそんなに気にならなくはなるのだけれど、これまでそうやって生活してきてしまった習慣はそうそうなくならない。なんでか私は体裁を整えてしまうのである、本当に面白くない。
そんなこんなで3年間、迫る国試とともに気力も体力も奪われて、しかもコロナ禍、私のやる気はどこへやら、好きだった映画は観れない、TVなんてもってのほか、本もあまり頭に入らない、ギリギリ楽しめたのはラジオと、軽めの漫画、辛うじて料理が出来ていたことは本当に良かった。
2月の末、国試が終わっても、消耗しきった私の気はすぐ回復するわけもなく、ほとんど何もしないまま3か月が過ぎ、最近ようやく映画を観たい!本が読みたい!どこかに行きたい!という気持ちが戻ってきた。おかえりなさい私。
でもしかし、人に会うと気疲れすることが分かったので、コロナで減った人付き合いのまま、本当に親しい友人としか接さないでいいやと思っている。また沢山人に会いたいという気持ちが戻ってきたら沢山連絡したいと思う。でも連絡するのも、LINEを返すのにも気をつかうんだ、返事をしなくてもごめんなさい。返事をしないと決めることにも気をつかう、なんでもかんでも気はつかわれる、気がつく言葉がいっぱいある、なんて便利なものを昔の人は発見したのだろう、面白いなぁ。
あ、でも誘われたら嬉しい、行くかはわからないけど。気が向いたら。
そういうことで私はいま休憩中、のんべんだらりと過ごしています。