がんばりへの考察
東大の入学式で上野千鶴子さんが送った祝辞が最高すぎた。
昨年度の受験界隈最大のニュースだった医学部入試不正問題にはじまり、ジェンダーギャップの現状を指摘し、それを東大に落としこみ、この格差社会に言及する。その上で、東大新入生に東京大学の素晴らしさと学んでほしいことを伝える。
その中でもこの一節が、あとあと全文を読んだだけにすぎないわたしでさえ身震いしてしまうようなすてきな一節だった。
‘’そして、がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日、「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと……たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶(おとし)めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。‘’
ただ、これをステキなスピーチだと思えているのは、わたしが大学生活でしっかり挫折し、自分の無力さを知ったからだ。4年前に大学生になったばかりのわたしには、まったく響かないもので、むしろ「は?努力したのはわたしだけど?w」なんてツイートしちゃったかもしれないな、とさえ思う。
結果をだせないひとは全員がんばりが足りないと思っていた。
恵まれた環境さえ、自分で手に入れてきたと思っていた。
だけどその後、がんばることがどうしてもできなくなったり、がんばってもうまくいかなかったり、がんばりでは超えられないような試練に当たって、また、身近に頑張れる環境を準備されていなかった人を知って、はじめてこれまでの自分がどれだけ助けられてきたのか、恵まれていたのか、やっと気づくことができるようになった。
それだけ努力の承認欲求は強いものだ。だから生存バイアスは避けられない。
自分が生きてきた世界は、その人生の主人公たる本人にとっては常に王道であり、しかもついつい同じような環境に身を置く人との関係性ができあがりがちだ。そのうちに人は誰もが違う環境で生きてきたことを忘れそうになる。
世界は多様性に満ちていることに、目をそむけて生きていくことは、環境的に恵まれた者にとっては可能なのだ。誰もが自分と同じような環境で生きてきているのだから、自分が成功しているのは自分の努力と運のおかげだ、と開き直ることは、実はものすごく簡単なことなのだ。そしてその努力そのものは本物なのだから、一概に否定されることもそうそうない。
そうして形成された生存バイアスで、いつしかわたしたちは、誰かを傷つけ踏み台にしているかもしれないという可能性を忘れそうになる。
きっとわたしも、何かしらの文脈では勝者のルールを振りかざしている。
がんばっても報われない社会が待っていると上野さんは言った。
きっとそうなのだろう。がんばりが正当に反映されることも減っていくのだろう。
だからもう一度考えたい。がんばれる者の、あり方を。