「私の」を手放すと豊かさの器が大きくなる
モノが少ないとすっきりする。
ため込んでしまった不要なものを整理するとなんだか心も軽くなって、エネルギーがすっと流れる感じがする。
とはいえ、モノを捨てるのは心に葛藤が生まれることが多い。思い出と結びついていたり、もったいないという損得勘定が貼りついているから。
でもモノよりもっと捨てられないが「我」だ。我をすてると楽になる。でも我が自分を守ってくれている気がするからなかなか捨てられない。
我っていうのは「私の」っていう思い。
私の家、私のパートナー、私のお金、私のもの。
私のせい、私の成果、私の失敗、私の手柄。
私の、の世界は所有の世界。コントロールの世界。
よいことも悪いことも、私のものか誰かのものか、その切り分けがあるから競争や奪い合いや比較が生まれて苦しくなる。
私の、をやめると持っているものはただいっとき自分のところにいてくれるものになる。私の、をやめると自分を責めることも誰かと比較することもなくなる。
ただの「その」や「この」になる。そのお金は今はたまたま私のところに流れてきてくれて仕事が済んだら別のところへ流れる。来るのも出ていくのも私の力でもなければ私の落ち度でもない。
その出来事は、この問題と、私のものではない。ただ起きているだけ。波が寄せて返すように。波が来たことも返ることも、私のせいではない。
ただあるがまま、自然に流れるがまま、その出来事はおき、その人はやってきては去る。
思い通りにいかなかったことも私の失敗ではない。それに対して何をするか、の学びときっかけをもたらすだけのもので、責めが待っているわけでもない。
その学びが気づきと成長にぴったりのものとして、私の責任を越えて設定されているから。宇宙のブループリントに記されていることが起きているだけ。
私たちはただ、「私の」という我を捨てて心のままにやりたいと思うことをやればいい。子どもが夢中になって遊ぶように。
我をすてると緩む。緩むと流れは太く勢いよくなる。やわらかいホースとカチカチのホース、どちらが水がたくさん流れるだろうか。同じこと。
我は私たちの受け取る器を固くする。「私の」と思えるものしか受け取れないから。「私の」を捨てると、失うような気がするけれどその逆で、それもあれもこれも、私のであろうがなんだろうがやってくるものをとどめることがない。柔らかいから何でも受け入れる。
「私の」という意識をやめると我を捨てることができる。我をすてると、「私の」の基準をはるかに超えて流れるようになる。すっきりする。すっきりしてかつ豊かになる。
「どうしよう」「なんで私ばっかり」そう思っているときは、その問題を「私の」問題と思っているという証拠。
だからこの「問題」として起きている出来事は宇宙のもの。宇宙が作ったもの。だからこれは宇宙のものなので宇宙に返します、と言って手から離せばいい。それをどうにかするのは宇宙の仕事。
そうすると、こんぐらかっていた頭がすっきりする。自分が本来やりたかったことや、大切にしたい気持ち、意図を思い出して、そうだった、このために私はこれをやったんだ。今は「この」出来事がおきて問題が起きているように見えるけれど、それは私の落ち度ではない。自分を責めるのはやめて、本来やりたかったことをやるために今できることをしよう、と思える。
あるいは問題から「私の」を外すと、誰かから「こうしたらいいんじゃない」というアドバイスが来たり、そもそもの問題となっていた出来事が消えてしまったりする。
嘘のように聞こえるかもしれないけれど、私は「私の」を手放してから心がとても穏やかで、以前だったらパニックになって後悔しまくって動けなくなってしまいそうな出来事があっても、宇宙を信頼して流れに任せることができるようになった。
何もしないというわけではない。何もしなくてもいいかな、と思ったとしてもこれをするともっといいよ、というヒントが来て気持ちが動けばそれをする。そうすると問題と思える出来事が問題ではなくなり、私にとって学びとなったり、周りの人にとっても豊かな結果になったりする。
「私の」を捨て「我」を捨てる。無責任に感じたり、ハンドルから手を放すような怖さがあるかもしれない。でもきっとほっとした気持ちも感じると思う。それに身を任せて、ああ、これをすることになっているんだな、とか、私の本質にそったこの行動をしよう、とか思えることをすればいい。
あるいはなにもしたくなければ、しないで休むことをすればいい。
それが流れを信じること。すると器が柔らかく大きくなって、受け取れる豊かさが変わるのです。