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シュプレーヴァルトの魔女おじさん

わたしが魔女おじさんとはじめて出会ったのは、ベルリンで毎年開かれているグリューネヴォッヘ(グリーンウィーク)の会場だった。食品・農業・園芸の国際見本市で、10日間に40万人ものひとが訪れる。国内外のありとあらゆる食べものが集まり、会場内には大きなお花畑が現れたり、豚や牛などの動物たちと触れあえるほか、ちいさいけど立派な馬場までできている。何棟にもつらなる広い会場(泣く子も黙る、総展示面積は幕張メッセの2倍!)は、一体どこを歩いているのか途中でわからなくなり、こうなったらもう勘を働かせてとにかく歩き回ることしかできない。

そうして会場をさまよっていたわたしは、さまざまなハーブが展示されたブースに迷い込み、しげしげとそのハーブを眺めていた。フレッシュなものもあれば、乾燥させたものもあり、いろいろな香りが一気に押し寄せてくる。ふと顔をあげると、花飾りのついた麦わら帽子をかぶったメガネのおじさんがにこにこしながら、こちらを見ている。

「日本人かい?」
「ええ、そうですよ」
「うちにはね、日本からのお客さんも多いんだよ。日本のテレビ局に取材されたことだってあるんだ。ほら、これを見てごらん」

そうして見せられた書類ファイルには、どうやら日本のテレビ番組のワンシーンらしい画像が貼りつけられていた。とりあえず「へえ」と感心してみせると、おじさんは得意げな顔をして、意味ありげに目配せしてくる。

「日本人ならワサビが好きだろう? ここにもワサビがあるんだよ」

そういって、おじさんが手を伸ばした先には、ちょっと大きめのゴツゴツした白いニンジンのようなものが、かごいっぱいに積まれていた。西洋ワサビだ。あんまりうれしそうなようすなので、「写真を撮らせて」とお願いすると、おじさんは西洋ワサビを片手に持ち、ポーズをしてくれた。

話を聞けばこのおじさん、ベルリンから車で2時間ほどのところにあるシュプレーヴァルトから来ていて、そこで自分のハーブ工房を持っているという。シュプレーヴァルトといえば、東ドイツ時代に観光地として人気だった場所だ。ちょうど東京から江ノ島へ行くような感覚で、ベルリンからは日帰りで行けるので、以前から一度行ってみたいと思っていた。わたしは、近々シュプレーヴァルトの工房にあそびいくことをおじさんと約束し、その場を後にした。

それから3ヶ月後、その機会は訪れた。わたしは友人たちとともに、アウトバーンを時速200キロで走り、シュプレーヴァルトに向かっていた。飛ばしたおかげで、目的地には1時間ほどで到着する。湿地帯のシュプレーヴァルトは、全長1000キロに渡る運河があり、ユネスコの生物圏保護区に指定されている。スラブ系民族のソルブ人が暮らす地域で、運河沿いには庭つきのちいさな家が並び、それぞれ船着き場がある。というのも、ここでの移動手段は小舟なのだ。

観光客向けに20人ほどが乗れるボートがあって、わたしたちはブルクという地区を1時間半でめぐるコースに参加した。鳥たちの声しか聞こえないほど静かな船上に、葉がつきはじめたばかりの木々の間からやわらかい光が差していた。地元民はわれわれ観光客を1ミリたりとも気にせずに庭いじりをしているし、湿地帯の遠くの方ではイノシシの親子がかけ抜けていく。ベルリンの喧騒を忘れ、こんなに穏やかな時間を過ごしたのはとても久しぶりだった。

そして、ついにあのおじさんのハーブ工房へと向かう。からぶき屋根がすてきな建物が見えると、そのすぐ横で子どもたちが誕生日会を開いていた。すると、工房からおじさんが出てきて、子どもたちのもとへ向かっていく。相変わらず花飾りのついた麦わら帽子をかぶっている。パーティーはちょうどお開きになったようだった。おじさんはわたしの顔を見るなり、「待ってたよ、さあさあ、中に入って!」とわたしたちを工房に招き入れた。工房に足を踏み入れると、むわっと、ハーブの強い香りがする。それもそのはず、天井からは大量のラベンダーがぶら下がり、キッチンの大きなダイニングテーブルの上にはフレッシュハーブが所狭しと置かれていた。

訪問することは事前に連絡していたので、おじさんはハーブ入りのリンゴジュース、ハーブバターやジャムを塗ったパンをどっさり用意してくれていた(ほんのひとかけで目から火が出るほど辛い西洋ワサビも!)。愛情がこもっていて、どれもこれもおいしい。これらはすべて、おじさんが自分で栽培したハーブを使って、わたしたちのために用意してくれたものだった。先ほどの外にいた子どもたちも、きっとおじさんがかわいがっている近所の子たちで、ふだんから手作りのハーブジュースやハーブ料理でもてなされているのだろう。

ハーブで誰かをしあわせにすること、ハーブで誰かの力になること……わたしは急に、「魔女の宅急便」の主人公キキのおかあさんのことを思い出す。あのおかあさんも、そうやって近所のおばあちゃんを助けていたんだっけ。そうしてひとり、このおじさんは「魔女おじさん」という呼び名がふさわしい、とこころの中でにやけたのだった。

わたしたちはすっかりもてなされ、あっという間にベルリンまでの帰路につく時間になった。魔女おじさんが近所に住んでいたら、きっとここに通うのになぁ、と後ろ髪ひかれながら、もう一度工房をぐるっと眺める。せっかくここまで来たのだから、お土産でもと思い、瓶入りのハーブソルトを買って帰ることにした。会計ついでに、魔女おじさんに「いつかあなたにインタビューしたい」と伝えると、にこっとして「これは持っていきなさい」と惜しげもなくハーブソルトをプレゼントしてくれた。その瞳は魔法のように輝いて、まっすぐで、やさしかった。お礼を伝え、「また絶対来るから!」とわたしたちは工房を後にした。

シュプレーヴァルトを訪れたあの春から、もう3年の月日が経つ。わたしはその後、ドイツの東のはしっこに位置するベルリンから、ドイツの西のはしっこにあるデュッセルドルフという街に、仕事の都合で引っ越してしまった。ベルリンまでの距離は500キロあり、そこからさらに離れたシュプレーヴァルトは、どこか遠い異国のように感じる。そして、このコロナ禍でこの1年デュッセルドルフから一歩も出ておらず、観光目的でどこかへ行くなんて夢のまた夢だ。

こんな世の中になっても、魔女おじさんはハーブを育てているのだろうか。ハーブで誰かの力になっているのだろうか。ひとり工房でせっせと何かをつくっているのだろうか。そうやってわたしは、ときどき、魔女おじさんのことを思い出したりする。彼の本当の名は、ペーターという。

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