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私には欠けているところがある

私には欠けているところがある

と思い始めたのは20歳過ぎた頃である。
今思えばそれまでも人に馴染めない部分の要素は多々あったのだが、自分に問題があるなどとは微塵も思わず。

小学校中学校は優等生だった。保健室の常連の優等生。この時点で既に危ういが、自分が危うい自覚なし。
高校・大学と演劇に傾倒し、好きな事に没頭した。これも今思えば不安定で自分好き。当時は自分は演技が上手いと調子に乗っていた。そして大学在学中にその後10年以上の付き合いになる京都の劇団の代表者に出会う。自分の書いた戯曲を読んで欲しいと渡したのだ。

それをきっかけに社会人の劇団に入ることになるのだが、そこからが試練の始まりだった。
完全に天狗になっていた私に、演技だけでなく人としてダメ出しされる毎日。
演技も脚本もひととなりが出るのだろう。初めて自分はダメな人間なんだと知った。
そしてそれが何年も続いた。
親にも言われたことない厳しい言葉に当時は此畜生!と日記に愚痴や文句を書いて泣いた。だが今思えば芝居を良くするためとはいえ、よく言ってくださったと思う。

そのうち私も少しは大人になり、ダメ出しされて泣いている後輩達をフォローする立場になるのだが、その時も、劇団を退団して10年以上経つ今でも、昔言われた言葉が時折顔を出す。言われた状況もその時の気持ちも昨日のように思い出せる。
その言葉とは、あなたは優しくない、という言葉だ。

前置きが長すぎた。
優しさとは何ぞや。
人生折り返しの今でも分からない。日々、問うている。

優しい人なんて沢山いる。
誰かが落とし物をすれば拾う、とか
困ってる人がいたら助けたい、とか
そんな事は子供の頃から知ってる。

でも例えば
誰かに悲しい事があった時
どうやってその悲しみに寄り添うか?

正解は一つでない。優しくありたいと思っていても受け取り方は其々で

話を聞いてあげる のは余計なお世話ではないか
慰める のは見当違いと腹立つのではないか
そっとしておく のは非情な人間みたいじゃないか
同情して泣いてしまう なんて失礼じゃないか

など色々と雁字搦めになり固まってしまう。
結局、本当に心が動けば相応しい寄り添い方ができるはずなわけで
そこが優しさなんだと思うのだけど

気を遣ったつもりが失言だったとか
仲良くなりたくて踏み込みすぎたとか
後悔のない人生を過ごしてきたつもりだけど過去を振り返れば失敗は数え切れない。

SNSが身近な昨今でコメント一つするのに何分も悩む。そして結局やめる事しばしば。
怖いのだ。優しくない自分が誰かを傷つけたり、優しくないとバレるのが。

私には欠けているところがある

今日もそんな自分に問うて
失敗を繰り返す。
優しくなりたい。