”生きている”だけで意味がある
辛いことがあったり、無力を感じたりすると、「何のために生きているのだろうか」と思ってしまうことがある。
人は何のために生まれて、死んでいくのか。多分人が生まれた時から、ずーっとずっと考えられているテーマだ。
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家まで1時間半。畑の中をひっそりと進む電車にゆられながら、お見舞いに行った病院のことを思い返した。
元気におしゃべりしている人、寝たきりの人、そろそろお迎えが近い人、色々な人がいたけれど、みんなエネルギーを発していた。それは多分、よく言われる"生命力"なるものなのかもしれない。そして私も、きっとそれを発していたのだと思う。
同じ空間にいるとエネルギーは伝わってくるし、それに対して私のエネルギーも呼応していたような気がする。1人いなくなってしまっただけでも、周りに流れる空気が全然変わる。
数年前、身近な人のエネルギーが フッ と消えてなくなった。彼女の存在感が、肌や空気、心の奥のほうに届かなくなってしまったのだ。
なくなる数週間前からもう話すことができず、毎日眠る時間ばかりが増えていった彼女。「何のために」なんて言っている場合じゃない、生きている意味なんて問題じゃない。彼女はその時、生きるために生きていた。
いなくなってしまった今、改めてそれでよかったのだと感じた。できないことも増えてきて、一人じゃ生活できなくなってくるけれど、周りにとっては彼女が「生きている」ことが嬉しい。存在してくれるだけでありがたいと思う。
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誰も住まなくなった家にあがり、仏壇にお線香をあげた。
きっと人はみんな、生きているだけで意味がある。「何のために」は実際あってもなくてもよくて、その人が自信をもって、楽しく生きていくためのオプションなのだろう。
仏壇に飾られた写真を眺めて、「90年間、生きていてくれてありがとう」とつぶやいた。