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認識してもらって初めてそれになる。「だれかが見ること、知ること、感じることが、あの蝶の美しい死を世界にあらわした」

"だれかが見ること、知ること、感じることが、あの蝶の美しい死を世界にあらわした"

クリスマスイブに見たほぼ日の糸井さんの言葉。

誰かに知ってもらうこと、認めてもらうことは自分が"自分である"ことを世の中に表す行為になると、恐山の副住職・南直哉の著書にあった。確かに、誰かが私のことを「もりやみほ」と認識しない限り、私は本当に「もりやみほ」なのか判断がつかない。

死についても、似たようなことが言える。「人の死は2回ある」という表現にもあるように、人は人に忘れ去られた時、本当に死んでしまう。誰かのおかげで、その「死」は死であることがわかるのだろう。

そんな世界のシステムの中で生きていると、「他人に自分の存在が左右されてしまうなんて」と、他の人の目を気にして生きなきゃいけないことに少しうんざりしてしまいそうだ。何があっても、どんなことがあっても、自分は自分だけで生き続けたい。

けれど、自分が他の人の認識によって存在しているように、私も他の人を存在させる大切な1人なんだよなぁ。そんなふうに思ったら、誰かによって認められていること、誰かのための自分であることが、「私はこのままで大丈夫」と思えることにつながるのかもしれない。

私が見ること、知ること、感じることが、誰かを世界にあらわせる。そんなに重要な役割が、一人一人に与えられている、そんな世界が素晴らしいと感じることにつながるのかもしれない。

気になる言葉、魅力的な言葉を集める共同「コトバツムギ」を始めました。共同運営者は以前ライティングスクールで一緒に学んだスミヨ。さん。月~土までのうち、私は月・水・金を担当しています。

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