雑談は「お茶淹れるよ」を口実に
「お茶だけでも飲んでいって」と、小さい頃は何度も耳にしてきた。急須に電気ポットのお湯を入れて、くるくる回しながらお茶の色が出るのを待つ。湯呑茶碗は、片手で持てるくらいのこじんまりとした、円形のもの。のどが渇いていたら、飲み干しても足りないくらいの量しか入らないだろう。
人数分の茶碗を用意し、それぞれに少しづつ入れていく。「1つづつ入れると濃さが偏ってしまうから、均等に入れてね」と当時母は言っていた。
お茶を用意したら、どうぞ、とお客さんへ差し出す。えんがわに腰かけて一緒に庭を眺めるときもあれば、家に上がってもらい、こたつで足を温め、お茶で手を温めながら一緒に飲むときもある。
そこからたわいもない、そして小さな雑談時間の始まりだ。
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私はこの「お茶文化」が、もっと現代にもあればいいのになぁと思う。湯飲み茶碗はどれも小ぶり。1杯飲み干せばすぐに解散することもできるし、もうちょっと話したければおかわりもできる。細切れに行うタイムマネジメントみたいだ。
また、急須を使うのもポイント。1度同じ入れ物に入ったお湯を、なんとなくの感覚でお茶として出るのを待つ。そして自分が飲む器と相手の器に、シェアしながら入れていく。これが連帯感を出しているような気がする。
もしもカフェで違う飲み物を頼んだら、最初から最後まで、相手と私は味を共有できない。ちょっと渋かったね、もう少し濃くてもよかったかな、なんて感想が、できなくなってしまうのだ。
「ちょっとお茶しよ」と言ってカフェに入ることもあるけれど、それはしっかり時間を作って話したいとき。「さぁ、しゃべるぞ!」と意気込むほどの熱意ではないけれど、ちょっと誰かと話したいときだってある。
「お茶」という飲み物が共通点になり、短い時間に軽い雑談をする。そして飲み終われば「ごちそうさま」と言って帰っていく。お茶を淹れることを口実に、小さい器に入ったそれを飲み干すまでの時間、場つなぎ程度の雑談ができるタイミングは必要な時間ではないかと思うのだ。
行きずりのコミュニケーションが、ゆるくみんなと繋がる1つの手段になる。いままではそれが家の周辺地域で行われ、お茶によって違和感も無理もないコミュニティが作られていたのかもしれないなぁと思う。
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「よかったらお茶でも一杯どうぞ」と、先日の仙台取材の時にお茶を出してもらった。取材先でもなく、ちょっとこの辺のことを聞くために話しかけた、出店のおばあちゃんからだった。
「ただお店にたっててもお客さんと話す機会って少ないじゃない。でもお茶を出せばそこでちょっと話ができるでしょ。それが楽しくてね。仕事なのか遊びなのかわからないわ」
そう話すおばあちゃんが入れてくれたお茶は、深い緑色だった。とびっきり濃くて後味がスッキリしたそれを飲みながら、私は3回目の仙台訪問のこと、おばあちゃんはすぐそばにある不動尊の歴史のことを話した。そして5分くらいで飲み終わり、「頑張ってね」と手を振ってお別れしたのだった。
特に何もなくても話したくなる時に、「ちょっと話そ」よりも「お茶淹れるよ」が言えたら、もっと雑談も楽にできるような気がする。お茶コミュニケーション、日常でも取り入れていきたいなぁ。