『病と共に生きるために気づいたこと』
星野源が、自身のツアー『星野源 POP VIRUS World Tour』の横浜公演で、レディガガの"Shallow"を演奏したらしい。映画アリー/スター誕生のテーマ曲"Shallow" だ。Mark Ronsonと一緒に奏でたらしい。最高だ。
私は"shallow"という言葉が好きだ。私が高校生でちょうどiモードとかskyメールとか出始めた頃。私ももれなく携帯を買ってもらい自分で着メロを作ったりしていた。友達とメアドを交換して、今思えばダサいかもしれないけど、佐藤さんはsuger.〇〇とか山本さんはmount.book〇〇とかアドレスに入れていた。私は苗字が「浅井」なので、何の気なく辞書で"浅い"という言葉を調べたら"shallow"と出た。へぇーくらいにしか思っていなかったけど、その頃から私はshallowという言葉にどこかシンパシーを感じている。
shallowはあまりいい意味では使われない。音としては「アサイ」だけど、意味としては「浅はかな」「浅薄な」「皮相な」という意味だ。うわべだけを見て判断し、物事の本質に至らないことだ。私は物事の本質を知りたいし本質を見極められる人間になりたいと思っていたので、「なんで私"浅井"なのかなぁ…"深田"とかだったら良かったのに。そっちの方が私っぽいけどね」と生意気にも思ったりしていた。
そんな事を思っていたあの日から20年後、レディガガが"Shallow"という曲を発表した。脳天を直撃された。ガガ様がインタビューで「アリーとジャックのための曲で、すごく特別な1曲。2人の人間が、もっと深いところまで突き詰めたい、浅瀬にとどまっているのは嫌だ、と語り合う歌なの」と語っていた。
涙が止まらなかった。この気持ちをどう言葉で表現すればよいか分からないが、きっと音楽好きの人なら誰もが一度は感じたことがあるであろう"あの"感覚だ。この曲が私をこの世界に踏みとどまらせた。そして時を経て、横浜で、私を救ってくれたもう1人のヒーロー星野源がShallowを演奏する。あの時と同じ様に、涙が溢れて止まらない。
星野源は、大病を経験している人だ。私は自分自身が入院する前から星野源のSUNという曲が好きだったが、退院してからは彼の「地獄でなぜ悪い」という曲が私を惹きつけて離さなかった。病室の隣の部屋で唸る誰かの声。少年が見る嘘とも真実とも分からない夢。その中にある微かな希望。病室でひとり、自分に明日が来るのか分からなくて怯えている患者の心理をよく表している曲だと思った。私はこの星野源という男が紡ぎ出す言葉とメロディ、圧倒的な孤独、絶望を知っている人間からこそ放たれる希望、心臓から花が咲くような「音楽」がたまらなく好きなのだ。
思えば、私を救ってくれたのはいつだって「音楽」だ。多くの音楽好きの人間がそうであるように、人生の忘れられない出来事、嬉しい時も悲しい時も、何かの時には必ずそこに音楽があった。流行りの曲も好きなアーティストの新曲も。オーケストラの時もあるし、好きで好きで仕方なかったあの人が車の中でかけてくれた曲の時もある。失恋した時も、今いる環境が辛くて心が折れそうな時も、私は音楽を聴いていた。そうやって乗り越えてきた。それくらい音楽は私にとって人生に無くてはならないものだった。
けれど、私があの夏、全身に菌が巡って敗血症になり生死を彷徨っている時、私の頭の中に「音楽」は鳴ってくれなかった。40℃の熱が全く下がらず悪寒が止まらない1週間、初めて「死ぬかも」と感じた時、首の血管からカテーテルを挿入され、意識朦朧の中、助けて…助けて…と小さく叫びながら恐怖で震えていたICUの夜、音楽の事なんか1ミリも考えていない。その一年後、同じような状況になり救急外来で点滴をされながら、あの日の恐怖が蘇りフラッシュバックして震えていた時も、CTで肺に影が写って「たぶん膿瘍だと思うけどもしかしたら癌の…可能性もあるから検査しておこう」と言われて結果を待っていた1週間も、そこに音楽は鳴らなかった。
頭の中に音楽が鳴った記憶が無い。本当に生死を彷徨っている時には、音楽は鳴ってくれない。悲しいけど、言い方悪いけど、音楽って所詮そんなものだ。少なくとも私にとっての音楽はそうだ。マズロー5段階説の最下層に音楽は来ない。嬉しかろうが悲しかろうが、生理的欲求と安全欲求が満たされている状態の時に初めて鳴るもの。生きる為に必要かもしれないが無くても死なないもの。悲しいけど、"生物学上の"という意味での音楽の位置付けはそうなのだ。
これだけ長く星野源やらガガ様やら音楽についての文章を書いておいて最終的に私は何が言いたいのかというと、実は私は今日、とても体調が悪い。大阪に来てから過去1番体調が悪くてひとりベッドの上で泣いている。私は免疫力が弱いのでどんなに気を付けていても感染しやすいし体調を崩しやすいが、体調を崩すたびに思うのは、「こうやってちょっとずつ、出来ることが奪われていくんだなぁ…」という感覚だ。どんなに未来を想像しても希望を見出せない。ちょっとした風邪を引いてもこの先の自分を想像して怖くなる。気温が下がって背中がゾクッとなると「これは外が寒いのかそれとも悪寒がしているのか?」が分からなくなって不安で動悸がしてくる。動悸が強く過呼吸になってしまい息が出来なくなる。苦しい。苦しくて仕方がない。気持ちを落ち着かせる為に早めに安定剤を飲んで眠ってしまおうと試みるが、このまま一人で誰にも気付かれず意識を失うんじゃないかと思ってしまい涙が出てくる。重症化したくない。あの日あの時、ひとり病室で味わった孤独と絶望を、二度と味わいたくない。
私にとって、病と共に生きるとはそういう事だ。予定していた外出が出来ない。仕事に穴をあける。受診する度にお金は飛んでいくし、自分はひとりなんだという事を実感する。誰とも共有出来ない。寂しい。楽しい時間を過ごしている時、病気のことをいっとき忘れる事はあっても、不安が消え去ることはない。たぶん一生ない。そして、病をコントロール出来なかった自分を責める。あの時の私の不摂生が、少しだけ仕事を無理した事が、間違いだったのだろうか。あんなに注意されていたのに何故出来なかったのか。自分はダメな人間だ。「あなたは病人です」という事実を嫌という程突き付けられる。時に死にたくもなる。
けれど。
けれど今日、今日の私は、とても体調が悪く気分が落ち込んでいる私の頭の中には、「音楽」が鳴っている。ベッドで寝込んでいて、熱が出ていて、目眩でずっと吐き気がしていて、狭いワンルームのベッドからトイレまでの数メートルを真っ直ぐ歩けなくて、何分かおきにトイレに駆け込み上から下からリバースしているが、私は音楽を聴いている。音楽を聴く事が出来ている。私の頭の中に音楽が鳴ってくれている。そして頭の中で鳴っている音楽を聴きながら、携帯のメモにこの文章をポチポチと打ち込んでいる。
病と共に生きるために気付いた。音楽が鳴っているという事は、死なないということだ。頭の中に音楽が鳴っているあいだは、私は絶対に死なない。その事に気付いた。これからは、死ぬかもしれないと思って過剰に不安にならなくてもよい。良いことに気付いた。こんなに体調は悪いのに。絶望に打ちひしがれているのに。希望がある。
何故だろうか。今日、私の頭の中に鳴っている音楽は「Shallow」だ。
大丈夫。あの時とは違う。このまま1人ぼっちで死ぬのかなと思って怯えなくていい。ただの体調不良。疲れが出ただけだ。受診もした。採血もした。お薬も飲んだ。怖がらなくていい。水分摂ってゆっくり休んで早く良くなろう。
早く良くなって、いつか、
大好きな、彼のライブを観に行こう。
2019.12.26