当事者マウンティングについて
先日の人類学ゼミとの合同勉強会、とても良かった。気分が晴れた。何が自分にとって良かったかと言うと、「最近感じていた自分の悶々とした気持ちをそのまま素直に話せた」事だ。その時のことを言語化しておきたいと思ったので、久しぶりにnoteを書いた。
自分はここ最近、人類学系のとある研究手法について、ずっとモヤモヤしていた。しかし、あまりにもその研究手法、とりわけ、その研究手法を使っているとある分野の研究が自分の周りで評価されている事について、モヤモヤしていた。その素晴らしいとされる研究に対してどこか「腑に落ちない感情」を持っていて、そんな事を思ってしまう自分の方がおかしいのではないか?自分がとても捻くれているのではないか?と思って、悩んでいた。穿った見方しか出来ない自分、この研究の価値が分からない自分の方が、おそらく研究者を志す者として何か大きな欠陥があるんだと思い、ずっと悩んでいた。もしかしたらこれは単なる嫉妬なのでは?と思ったこともあったが、考えるほど嫉妬という言葉は自分の心のモヤモヤを表す言葉としてフィットしなかった。
しかし、昨日の人類学ゼミの議論の中で分かった事は、私がずっとモヤモヤと引っかかっていたのは、そもそもその研究分野でも研究手法でもなく、評価されている研究の中身でもなかった。よくよく考えたら、私が引っかかっていたのは、その研究手法を用いているとある研究者から発せられたある言葉だった。
ここ1~2年、その研究手法を採用しているとある分野の研究者の講演を聞く機会が何度かあった。ある講演の中でこんな場面があった。講演のあとの質疑応答の際、フロアから研究者にこんな質問が投げかけられた。「◯◯(の当事者)について研究する◯◯(の当事者)ではない研究者について、どのように感じているのか気になりました」
その研究者はその質問に対してこう答えていた。「とても答えにくいですが…笑、はっきり答えると、基本的にはとても不快です。当事者じゃない人が当事者について書くということは、基本的には誤解だらけだからです」
私はおそらく、その時の研究者のこの発言、発言というか、その研究者から発せられるその雰囲気に、ずっと引っかかっていたし、ずっと傷付いていた。
当事者からその言葉を言われたら、もう、返す言葉が無い。そして、1文字も書けなくなった。なにかの当事者が自分の属性を選べないように、当事者ではない者も、当事者ではないという属性を、自分では選べない。
それを思ったとき、ずいぶん前だが、文化人類学者の磯野真穂さんが書かれていた「当事者マウンティング」の記事を思い出した。リンクを貼っておくので関心のある方は読んで欲しい。私はその研究者の発言について、この記事の中で言われている様な「当事者マウンティング」の様相を、非常に強く感じた。もちろん、その研究者にそんなつもりは微塵も無いという事は理解している(後から気づいたのだが、その研究者はむしろ「自分はその属性の当事者を代表していない」と言っていた)。しかし、少なくとも私はその場ではその様に受け止めた。言葉を奪われたのはこっちの方だという、怒りにも似たような気持ちもあったと思う。その発言のマウンティング性に気付かない、その場にいる人たちが作り出した空気感にも、イライラした。
そのような事を思っている。と、いう報告。
を、何気なく人類学の勉強会の中で問題提起したところ、分かる分かると言ってくれた人が沢山いて、思いのほか熱い議論になった。救われた気持ちだった。インタビュー研究の暴力性について思っている事を話された方もいた。その議論の流れで、人類学の先生が、その研究手法の歴史や背景、自省的・批判的議論、現在の位置づけなどについて詳しく教えてくれた。そして、私が疑問を抱いた研究手法とその研究者の論文は、とても価値のある素晴らしい論文だと思っていると教えてくれた。
私自身、とある病の属性を持つ当事者である。傷付くことは日常茶飯事である。カミングアウトしていないので、悪意がない人の何気ない会話の中で思いもよらない角度から不意打ちで刺されることは多々ある。SNSの中では、同じ属性で、もっともっと酷い銃弾で打ち抜かれている人の姿を何度も見る。悲しくて仕方がない。涙が溢れてくる。経験したことのないお前たちに私たちの気持ちの何が分かる!と言いたくなる事もある。
しかし、なにかの当事者が自分の属性を選べないように、当事者ではない者も、当事者ではないという属性を自分では選べない。そして、当事者ではないと語れない経験があるのは事実であるが、分かろうとしてくれる人が少なからずいることも事実である。この世のすべての物事が、そういう側面を持つのかもしれない。
正直、ここ2〜3ヶ月、研究に対するモチベーションが完全に折れていた。自分がどの視点から物事を見ているか全く分からなかった。病の経験について語っていただいている事の侵襲性、自分の看護師としての視点、患者としての視点。何もかも嫌だった。SNS上にあふれる酷い言葉、あらゆる属性の人に対する心無い言葉の数々、自己責任を押し付ける世の中、政治、怒り狂う人、成り立たない対話。何もかも嫌だった。医療従事者の権力性、その権力に無自覚なこと、しかし自分自身もその権力を持っている側の人間である事、患者の思いを代弁しようとした自分の浅はかさ、コロナの事、自分が習ってきた看護学、教員をしていた事、エビデンス教育、公衆衛生の正義、本当は私も「それは貴方の自己責任だ」と言いたくなる時があるという事。全てが繋がって、本当に何もかも嫌になっていた。
諦めの様な気持ちもあった。社会を取り巻くあらゆる問題、知らなかった時の方が幸せだったかもしれないとさえ思った。退学しようかなと思い始めていた。しかし、たとえ退学したところで、知らなかった時に戻る事は出来ない。そして、勉強することを諦めてしまっていたら、この人類学のゼミに参加することも無く、気持ちが救われることも無かったのだ。
少し、いや、だいぶん話が逸れてしまったが、自分の中では心のモヤモヤは軽くなった。なんの話だったかまとまりのない文章になってしまったが、私が今回の人類学ゼミとの勉強会で一番感じたこと、そして、この文章を読んでくださった方にお伝えしたいことは、最終的にはこれだけかもしれない。それは何かというと、
『研究に関する心のモヤモヤは、1人で抱え込むよりとにかく早めに誰かに吐き出した方が良い』コレです。これに尽きる。以上。
2022.9.22