読書記録⑩『もしかして ひょっとして』大崎梢著
読書記録も今回で10回目。継続が苦手な私でも、仕組み化して淡々とこなせば、なんとか達成できるということがわかった。そのことについてちょっと触れてみたい。
まずは読書について。これは最初に、一日の読書量を決めてしまう。四日で読み切りたければページ数から四分の一を割り出し、そこまで読むというページに付箋をペタリ。そしてまた次の日読む範囲の最後のページに付箋を貼り、読み終えた場所の付箋から読み進める。その繰り返しで読書は予定通りに終わる。
あとは読んでいて気になったページに、別の種類の付箋を貼る。100均の枚数が多い付箋なら、惜しみなく使える。こうすることで、noteの記事を書くときに書きたいことを思い出せる。
読む習慣、精読、アウトプット。おまけに図書館通いもしなければならない状況が出来上がる。出不精な私にとって、外出のきっかけは重要だ。ひしひしと読書記録による恩恵を感じている今日この頃である。
とはいえ、気まぐれな自分のこと。あまり気負わずに、マイペースに続けていきたい。
今回選んだ本は大崎梢著『もしかして ひょっとして』。このなんとも頼りなさそうなタイトルが、優柔不断な私に親近感を湧かせた。そしてカバーイラストが好みだったこと、短編集が読みたい気分だったことが決定打となって、気づいたら借りる本の上に重ねていた。
表紙って本の顔だから、わりと重要だと思っている。もちろん中身の文章とは別物だということもわかっているけれど、視覚の印象が大きいのも確かだ。noteの記事でもアイキャッチの役割は大きいと思う。私はここ最近ずっと、みんフォトギャラリーの画像を利用させてもらっているけれど、綺麗な風景写真やキュートな猫画像などを提供してくれている作者の方々には感謝しかない。毎回、記事を書き終えて画像選びをする時間は、執筆のご褒美タイムのようなものだ。ルンルンで選んでいる。
話が横道に逸れてしまった。とにかく、この本のカバーイラストが絵本の世界から飛び出てきたみたいでメルヘンチックで可愛らしかった、ということが言いたい。
ではここから肝心な中身に触れていく。まず、短編それぞれのタイトルがいい。『小暑』『体育館フォーメーション』『都忘れの理由』『灰色のエルミー』『かもしれない』『山分けの夜』。六話あるこの短編集は連作なのか、それとも各々独立した話なのか。どんな内容でどんな登場人物たちが出てくるのか。読む前にタイトルだけ見て、少ない情報から推理するのも楽しい。
一話目の数行を読んだら、すぐにわかった。あ、すごく読みやすくてリズムがいい。そりゃプロ作家が書いたものだ。洗練された文章なのは当然かもしれない。でもやはり相性というものがある。この本はすんなり自分に馴染みそうだと思った。
最初の物語『小暑』は、15ページにも満たないショートショートだ。電車のボックス席にたまたま乗り合わせた老婦人と、赤ん坊を抱いた主人公の男性との会話で話が展開していく。主におばあさんの家族、兄や母の昔の話だったが、まるでこちらもその場に居合わせているように「それで?」と続きを促したくなるエピソードだった。
おばあさんの兄が(当時)大学に合格し上京。しかししばらくして、兄が学校にろくに通わず年上女性と同棲していると母が聞きつける。そして母は、その時まだ13歳だったおばあさんを連れて、兄とその女性の住むアパートに乗り込む。
優秀な我が子の将来を、年上女性にたぶらかされて台無しにされてたまるか。母の怒りや執念、息子を取られたという嫉妬心。事象だけ見ると、どこかに転がっていそうな話に思えるかもしれない。でもそこにはもっと複雑な、母自身の立場や想いも関係していた。短いストーリーなのに、トーストなどの軽食ではなく、メインも味噌汁も副菜も備わった定食を食べたような満足感だった。
電車の窓から見える風景に例えた一文が印象的だったので引用しておく。
次の『体育館フォーメーション』は、予想通り十代の学生が主人公の物語だ。ここで個人的なことを書くと、私は十代の青春ものが苦手だ。制服、反抗期、友情、恋愛。甘酸っぱいあの思春期の雰囲気‥‥目を背けたくなる。なぜだろう。自分のその頃と重ねて気恥ずかしくなるからだろうか。自分が無知で自意識過剰だったからといって、偏見は良くない。そう思いながらも、やっぱり今は酸いも甘いも知った人間が出てくる小説に安心感を覚えてしまう。
それはさておき、この第二話を読み進めるうちに私はようやくこの小説集が“謎解き”をテーマに編纂されたものだということに気づく。
『体育館フォーメーション』では、屋内で活動する複数の部活動の間で、ある問題が浮上する。それは男子バスケ部の二年生の一人が、一年生を執拗にしごいているというもの。罵声が響くせいで、他の運動部が活動に集中できないというのだ。そのクレームを受けた生徒会の調整役員が色々と疑問を抱き、推理し、最後には謎が解消される。
普段、ミステリー小説や謎解きものを読む機会がほとんどないため「自分が著者なら、この後どう展開させる? どう締めくくる?」と考えさせられた。新鮮だった。
第三話『都忘れの理由』は、六話の物語の中でも特に印象深かった。妻に先立たれた八十を超える老人と、還暦を超えた家政婦さんの話。冒頭で、妻の生前から15年勤めてくれた家政婦さんが、事前の申し出もなしにいきなり「おいとま宣言」をし、一方的な挨拶を済ませると家を出ていってしまう。
そこから主人公の老人は、自分が何か彼女に無神経なことを言ってしまったのではないか、配慮に欠けた行動をとってしまったのではないか、と思いを巡らす。
回想しながら、妻や家政婦さんとの思い出、最近あった出来事などを丁寧に整理していく。しだいに点と点が繋がるように、ある仮説が思い浮かぶ。そして老人は誤解を解かなければ、と動き出すのだ。色々な要素を絡めてものを考えていく過程、心が動いて変化していくさまが面白かった。また家族でも恋人でもない、この絶妙な距離感の二人の関係性もとてもいいと思った。
ちなみに“都忘れ”は植物の名称で、作中に重要な伏線として登場する。ネットで調べたら、紫色や桃色の少し控えめな草花だった。もしや、と思って表紙を見たら手前にばっちり描いてあった。
第四話『灰色のエルミー』。これもまた予想通り、“エルミー”とは上品な猫の名前だった。主人公は異性の友人からエルミーを預かったことで、ちょっとした事件に巻き込まれてしまう。この短編集の中ではこの話と、最終話の『山分けの夜』がいかにもミステリーといった展開だった。何しろ死傷者が出る。あれ? ほんわかした短編集じゃなかったの? と、勝手に表紙の絵から抱いていた印象を、ちょっと覆される気がした。でも、すぐに思い直した。著者の目的はこの本のタイトル通り、やはり「もしかして ひょっとして」に集約されているのだろう、と。だって全く残酷な感じもグロテスクな感じもしない。あくまで謎の解明が主役なのだ。
そしてちょっと意地悪だったり、感情を昂らせるような人物が登場しても、トラウマになるような酷い人物像も描かれていない。最終話の“山分け”にもその辺りの誠実さが現れている。
五話目の『かもしれない』も『都忘れの理由』同様、個人的に好きな筋書きだった。ここではあの有名な絵本『りんごかもしれない』(ヨシタケシンスケ著)が登場する。主人公の男性は、5歳の娘にこの絵本の読み聞かせをする。そのうちに過去に自分の同期が起こした、会社でのポカミスに思いを馳せる。そして、もしかしてあの時のミスは‥‥と「かもしれない」可能性をいくつか想像し始める、という流れだ。
妻の同期だったこともあり、新たな情報を得ることで、だんだんと真相が明らかになっていく。そのこんがらがった糸をほどいていくような、曇っていた視界が徐々にクリアになっていくようなプロセスが小気味いい。
人の感情のように、物事は単純明快ではなく複雑なことが多い。一つの事象に対してその要因は複数絡んでいたりする。「どうしてこうなった⁉」とパニックになるのではなく、一つ一つ手にとってつぶさに観察してみれば、何か重要な手掛かりが得られるかもしれない。あり得ないとか、バカげてるとか思わずに、まず仮説を立ててみる。そうやって集めた小さな発見をつなげてみたら、大きな真実に辿り着く‥‥かもしれない。
そんな着眼点の大切さに気づかせてくれる、素敵な短編集だった。
ひとまずの目標、10冊分の読書記録を達成できたことが、ともかく嬉しい。また小さな目標を立てて地道に成し遂げていきたい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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