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あなたの故郷への想いはいかほどですか?

故郷と一言に言っても色々あるでしょう。

生まれ育ったところ?昔の思い出の地?それとも今もそこで暮らしているかもしれない。

中には自分の故郷がどこなのか分からない人も世の中には居る。


そんな中、私がはっきりと故郷だと認識しているのは、10歳まで暮らした滋賀県彦根市。冬は雪深いところでした。夏は色々な種類のトンボや蝶々が飛んで来ました。自然の豊富なところでした。

果てしなく広い田んぼがあって、通っていた小学校は子どもの足で歩いてもどれくらいかかっただろう?道草なんかしてたから、相当な時間をかけて通っていたと思います。

現代なら考えられない位、遠くて危ない道もありました。行きは集団登校、帰りは自由。家の近い友達と田んぼの畦道を歩いたりして、草花を摘んだり、時にはよその家のいちじくの木になった食べ頃のいちじくを取って食べたりして・・・笑

バスで通っている友達も居たので、そのバスが私たちを通り越して行く時には、みんなで手を振り合います。

思えば、いい時代にいい場所に生まれたと思います。道ですれ違う人も居ないような田舎だったけれど、家の集落に入れば、知った人ばかりです。私の家は一番奥地にあったので、とても遠かった。そのせいで今でも足腰は強いのかもしれません。

その生活が突然奪われたのが10歳の夏でした。自治会長も勤めたり、地域のママさんバレーの監督をしたりもしていた優しい父が突然水の事故で亡くなったからです。私の母は、大阪出身の都会っ子なので、それがきっかけですぐに母の親元の近くへ引っ越すこととなりました。父が亡くなって3ヶ月後の11月初旬。


そこは京都府の郊外でしたが、私にとっては都会に思えました。話し言葉も違いました。遊び方も違いました。元々人見知りで今思えば、HSC(HSPの子どもバージョン)の私が、すぐに環境の変化に付いていける訳もありません。転入生は、周りの同級生の注目の的でした。じろじろと見られるのが苦痛でした。それも2年ごとのクラス替えがある小学校で4年生の11月と言えば、既に学級がほぼ出来上がった状態でした。担任の先生とはことごとく気が合いませんでした。

そこから私は苦難の子ども時代を過ごします。母子家庭(現在は、ひとり親家庭と言う)は当時珍しく、学級の氏名が全て書かれた名簿の父親の指名欄は空欄でした。今思えば、考えられないようなプライバシー(みんなの住所、電話番号、両親の名前)がばら撒かれていた時代ですね。何の必要性があったのでしょう。。。

それはさておき、私は特別な子、として育ちました。今の時代ならひとり親家庭なんて珍しいことではありませんが、当時は、学年に2、3家庭しか居ませんでした。特に母親に「不憫な子」と思われるのが何よりイヤでした。たとえそれが愛情から来るものであったとしても・・・。


さて、故郷の話に戻りますが、そんな訳で、私にとっての故郷、滋賀県彦根市は楽しいことしか思い出せない、50年の人生を振り返っても一番幸せな10年間でした。そんな時期があるだけ、私はまだ幸せと言えます。

それでもあれから40年経った今でも、故郷に思いを馳せてしまうのは、今の生活に何か充足したものを感じられないからだと思います。その後の人生は苦難に次ぐ苦難の連続でしたが、幸いなことに私には、2人の息子が居ます。その2人がようやく大人になり、そろそろ下の息子も落ち着いて来ることでしょう。それまではまだまだ心配事も尽きませんが、なんとか私の母と同じひとり親の人生を辿って、今ももがきながら生きています。


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みほ
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