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「僕はまだたった75歳の若造なんだよ」ジョー・バターンの来日記念トーク・ショー(2017年12月)

2017年12月 HMV渋谷店で行なわれたジョー・バターンの来日記念トーク・ショーならびにサイン会の模様を書き起こしました。60年代半ばから現在までニューヨークをホームに活動するシンガー/ミュージシャンでありながら、ロスアンゼルスのチカーノたちからあたかもローカル・ヒーローのように愛され続けているジョー・バターン。アフロ・アメリカンとフィリピーノとの混血でありながら、多くのラティーノたちから“キング・オブ・ラテン・ソウル”と称される稀有な存在でもあります。ジョー・バターンとは旧知の関係である宮田信(MUSIC CAMP, Inc./ BARRIO GOLD RECORDS)が聞き手となって行われたこのイベントでの、多くのジョークを交えながらジョー自身のキャリアについてや当時のブーガルーのシーンについても言及するトーク・ログ。蛇足ではありますが、当日参加しての個人的な感想は“めっちゃワルかった、今でもかっこいいおじいちゃん”。名曲「ジプシー・ウーマン」で聴けるその歌声のように自由に揺れ、のびのびとストーリーを描くジョー・バターンの魅力にあふれたイベントでした。

※録音状況で聴き取りづらいところも多くあったこと、同席された通訳の方が訳さなかった回答などもできる限り残したため、厳密には一部誤訳の可能性がありうることはご承知ください。

ジョー「25年前、ジョー・バターンのことを知っている人は日本に誰もいなかったはずだけど、僕を日本に連れてくるっていう夢をシン(宮田信)が果たしてくれて、こうやって日本へ来ることができてうれしいよ!」

宮田「誰も知らないってことはないでしょう(笑)」

ジョー「OK(笑)、みんなは知らなかったってことだね(笑)」

宮田「ヨーロッパや、最近ではコロンビアでもライヴをやられていますが、コロンビアのオーディエンスはいかがでしたか?」

ジョー「ビューティフルだったよ!カリフォルニアみたいで。カリフォルニアは僕のセカンド・ホームなんだけど、南米や……日本もそうだけど、サード・ホームだと思っているよ。どの国もそれぞれ人気のある曲が違うんだ。ヨーロッパだと<ラップ・オー・クラップ・オー>、ディスコ調の曲。コロンビアだと<アヴィオン>。名前が違うけど<クライ>だね。フィリピンでなら『アフロ・フィリピーノ』に収録した<オーディナリー・ガイ>が人気があるんだよ」

宮田「ロスアンゼルスにはハードコアなファンがたくさんいて。チカーノたちはあなたの音楽を一生モノだとして深く愛しているけれど、西海岸と東海岸ではコンサートのときのセット・リストは変えているんですか?」

ジョー「もちろん!カリフォルニアではスロー・ソング、<FALL IN LOVE>とか、ローライダーが好むような曲が人気だね。ヨーロッパではブーガルー的なアップ・テンポな曲が好まれる。南米ならサルサ。ラッキーなことに僕は神様のおかげでどんな人の心にも響かせることが出来る。いろんなスタイルの音楽をプレイできるんだ。だからただ歌うだけではなく、常にオーディエンスのために祈りをささげているよ」

宮田「ありがとうございます。昔の話を訊いていきたいです、最近本を書き終えたそうですが……来年自分で出版されるそうなので、その本に書かれていることにもなるかもしれないですね」

ジョー「ずっと20年間、その本を書いていたんだけれども、この半年でやっと仕上げることが出来たんだ。だってエンディングがわからないだろう?たくさんの自伝があるけれども、たいていドラッグで生涯を終えることとなったり、ギャングスタだったり、悲劇的な結末になることが多い。ティト・ラモス(TNTバンドのシンガー)が“ジョーの人生は悲劇を寄せつけない”って言うんだ。そこで気がついたんだよね。そう、50年の間にいろんなことがあった。刑務所にも入ったしギャングスタやマフィアと関わっていたこともあるし、ドラッグにも打ち勝った。悲劇を乗り越えたんだ。その中で音楽と神様に人生を救ってもらったんだ。ジョー・バターンが“ただの人”なんだってわかってからなんだよ。自分が自分のボスではなくて、神様が教えてくれるんだ。“常に愚か者であれ”と神様は教えてくれるんだ。たくさんの人が自分をかしこいと思っているけれども、それこそが本当に愚かなことなんだって。こういうことに気が付くことが出来たから、死ぬことももう怖くはないよ。俺はお金持ちにはなることがなかったけど、とっても幸せだ。シンのような友達がいる。こうして迎えてくれるファンが、日本だけでなはく世界中にいてくれて、とても豊かな人生を歩んでいるよ。神様は僕を歌わせてくれた。僕はまだたった75歳の若造なんだよ(笑)。僕のことを知らない、僕の歌を聴いたことのない人すべてに僕を知ってほしいね。この週末のコンサートに踊りにきてほしい。これまでの人生で味わったことのない経験をさせてあげるよ!泣かせて、歌わせて、踊らせて、その人と家族のために祈りをささげるんだ。そうしたらまた数年後にシンが日本に連れてきてくれるだろ?(笑)」

宮田「昔の話を訊かせてくださいよ(笑)。ジョーはブーガルーのシーンから登場しましたよね。ブーガルーという音楽はラテン、サルサのシーンから生まれた言葉ですが、同時にソウル・シンガーのファンタスティック・ジョニー・シーが<ブーガルー・ダウン・ブロードウェイ>を歌ったり、ジャズのルー・ドナルドソンが『アリゲーター・ブーガルー』をリリースしていたり、黒人たちにも使われていた。ラティーノが言うブーガルーと黒人たちにとってのブーガルーには違う意味やニュアンスがあったのでしょうか?」

ジョー「ジョー・バターンは小さな子供だった頃から常に歌っていたんだ。バリオで育った彼は特別な耳を持っていた。聞くだけでなんでも理解してしまう耳で、僕の本にも書いているけどまるでシックス・センスなんだ。普通は五感しかないだろ?ジョー・バターンは第六感が働くのさ(笑)。オックスフォードにプリンストン、そう東京大学でも学んでないのになんでも理解してしまうんだ。ママから教わった“母親の知恵”をストリートで育んだんだ。僕の本を読んだらどうやって生き抜くか、歩き方がわかるよ。直面してきたいろんなトラブルや現実からどうやって身をかわすか。50年かけてわかったことを書いているんだ。大学に行った人たちにもわからないことさ。ダーウィンの『進化論』や、マキャベリの『資本論』にも書かれててることなんて実は必要ないんだ。ジョー・バターンは最短ルートでダイレクトに伝えるよ。人生を複雑にする必要はないんだ。君がアグレッシブでハングリーなら誰も君に“NO”とは言わないさ。そうやって音楽を通じて生きてきたんだ。僕の人生はおとぎ話だけど(笑)。音楽レッスンを一度も受けたことがないんだ。刑務所にいたときにピアノがあって、ピアノに遊んでもらっていたらわかったんだよ。神様が音楽を作る才能を与えてくれたんだ。バリオで育ったアフロ・フィリピーノのキッズが、こうやって日本まできて歌えるような人生にしてくれたんだ」

宮田「神様のおかげってことですね。質問と答えがまったく違ってるんですが(笑)」

ジョー「ジョー・バターンはよくしゃべるだろ?」

宮田「ラティーノが言うブーガルーと黒人たちにとってのブーガルーの違いですよ!」

ジョー「わかってるって(笑) ジョー・バターンのスタイルは質問されたことに違うことを答えるんだよ。シンの質問に答えるより、僕が話したことのほうが面白いだろ(笑)。ブーガルーはラテン・ソウルだよ。シカゴの黒人パフォーマーが始めたスタイルで、だれかがそれをブーガルーだって呼んだのが最初だって聞いたよ。ジョー・バターンはもっとスマートなんだ。すべてにおいてブーガルー的になるな、と。ブーガルーはバブルガムだ。いつか死んでしまう」

宮田「ブーガルーは流行語でいつか消えてしまう?だからラテン・ソウルっていう言葉を使ったってこと?」

ジョー「ラテン・ソウルならラテンもソウルも決して消えない言葉だろう?ブーガルー?消えちゃうよ!ブーガルー・アーティストは消えていったけど、ジョー・バターンは消えていないじゃないか」

宮田「当時の『ジプシー・ウーマン』や『サブウェイ・ジョー』をリリースしたころのオーディエンスはラティーノだったの?ブラックだったの?」

ジョー「最初はR&Bをストリートで歌っていたんだ。刑務所から出たときに友達にあったら、“もうそれは古い、これからはラテン・バンドだ”って言われちゃって。“なんだよそれ”って訊いたら“リハーサルに来い”って言われたんだ」

宮田「それはティト・ラモス?」

ジョー「そうだよ!ティト・ラモスだ!リハーサルを観に行ったらジョニー・コローンがいてさ。すごくよかったんだけど、ジョニーに“なんでこんなギャングスタを連れてきた”って言われて。“俺がギャングスタって?そんな風に俺に話すな。ぶちのめすぞ”って返したら、“出て行ってくれ”って(笑)。もっと聴きたいから、“いさせてくれよ”って言ったのに“悪いけど、プライベートなリハーサルだから出て行ってくれ”なんて言われてね。頭にきて一発ぶちのめしたかったけど、我慢して出てきたよ。これがジョー・バターンの始まりさ。みんなにはどうやって我慢したんだって言われたけどいつか音楽でやり返してやろうと思ってたんだ。それからピアノに取り組んで、10年はかかると思ったけど神のご加護があるからたった半年でデビューして、ヒットもしてやり返してやったんだ」

宮田「『ジプシー・ウーマン』を喜んだのはブラックなの?ラティーノなの?(笑)」

ジョー「OK。答えは用意してる。ニューヨークは当時変わってきていたんだ。『ジプシー・ウーマン』は新しい音楽だった。プエルトリカンやアメリカンのキッズたちは親が知らないような新しい音楽を探していたんだ。最初のバンドではピアノを弾くだけで歌っていなくて。ジョージ・パガーンていうボーカリストがいて、ブーガルーをやろうとしていたんだけど彼は英語が苦手だったんだ。そこにあった新聞を読みながら自分が歌ってみたら怒っちゃってさ。僕が歌いだしたらみんな喜んじゃって。演奏が始まって。それがスタートさ。自分のバンドのメンバーは一番若いラテン・バンドだった。みんなロー・ティーンだった。自分は22歳だったけど、だれもジョー・バターンとバンドを組んでくれなかったんだ。ギャングスタだったから。入ってもすぐに辞めちゃうんだ。だからストリートで演奏しているキッズに声をかけてバンドを組んだんだよ。真ん中にあったピアノにナイフを突き刺して“俺がリーダーだ”って叫んでね(笑)。キッズたちは“こいつクレイジーだ”って驚いてた。“俺についてきたら、すごいところまで連れて行ってやるよ”ってささやいてね。誰も文句は言わなかったけど、みんなのママが問題でね。ママの了解を得なきゃいけなくて、みんなにダメって言われてさ。“ギャングスタと一緒にバンドをやるなんて!”もうギャングじゃない、違う”って説得して、連日3時間スタジオに入って。半年後には全米のR&Bチャートで16位を取ったんだ。ラティーノのキッズは『ジプシー・ウーマン』を自分たちのための音楽だって受け取ってくれた。ニューヨークではフランキー・ライモン&ザ・ティーンネイジャーズより人気があったんだ。だって一番新しい音楽をやりながら、女の子が恋におちてしまいそうなスローな曲だってやるんだよ。だから奥さんとも知り合えたんだよ。マンボ、チャチャ、スロー・ジャム、ローライダー、ソウルいろんな曲を演奏したんだ」

宮田「わかりました」

ジョー「イエス!(笑)」

宮田「ジョーの曲にはストーリーがありますね。<クライ>という曲(アルバム『Sweet Soul』収録)をかけますので、聴いてみてください。これは24日のライヴでDJをするゴメス(注: デイヴィッド・W・ゴメス<DJ、exモンテカルロ76>が来日し、この日は観客として参加していた)からの質問に関係していて、曲をかけたあとにまた質問しますね」

ゴメス「この<クライ>にあるような手紙を受け取った友人が当時いたんでしょうか?帰還兵のお友達に捧げた曲なんでしょうか?」

宮田「日本人にはこの曲のストーリーのところがわからないから、そこも話してもらえますか?」

ゴメス「このストーリーはべたつく、蒸し暑いベトナムの戦場で、ジョーが友達と塹壕の中で話をしているんだ。この友人はガールフレンドからの別れの手紙を受け取っていて。戦場にいる間に他に恋人ができてしまったり、もう待つことに耐えられなくなった女性から別れの手紙を受け取るっていうのは軍人にはよくある話だけど、ジョーはベトナム戦争には行っていないから、そういう経験をした友人にささげたのかが知りたかったんだ、ジョー、ながい質問でごめんね」

ジョー「OK、長い話をしなきゃいけない質問だね。ジョー・バターンは想像力が豊かで、ごっこ遊びのプロフェッショナルなんだ。刑務所ではたくさんの本を読んで、世界中を旅したんだ。白黒映画も同じで、映画や本、音楽を通じて人生のストーリーをたくさん知っているんだ。ミュージシャンになった時、“ラブ”という言葉を使った曲は作らないって決めたんだ。みんなラブって歌うだろ?“アイラブユー♪アイラブユー♪”って。違う言葉でラブを表現することにしたんだ。この曲は50年代に人気があったジョニー・レイの曲。子供の頃に、女の子の間でとっても人気があって忘れられなかった曲をオリジナルとは全く違うようにアレンジしてリバイヴさせた。バリー・ホワイトやアイザック・ヘイズなんかがトーキング(語り)を曲の中に使っていて、この曲を変えるために冒頭にトーキングをいれたんだ。マーリー・シェイラがアレンジをして。ジョー・バターンに音楽の才能はないかもしれないけど、アイディアはいつも最先端なんだよ。ジョニー・レイの曲に戦争のことについての意味も持たせたんだ。ベトナム戦争の真っ只中で。国のために命をかけて戦場にいる兵士が、残してきた恋人から別れを手紙で告げられる。“いつ死んでもおかしくない人を待てない、ほかの人を見つけるわ”。これほどつらいことはないだろう?」

宮田「誰かの実話なんですか?」

ジョー「戦場にいったことがなくても失恋したことのある人はみんな共感できるだろう?ベトナムに行った友人もたくさんいるんだ。だから戦争の話はたくさん知っているよ。この曲の後半はエキサイティングに盛り上がるんだ。自分のレコーディングの中でもとてもいい録音だね。バックで歌っているのはスウィート・インスピレーションなんだ」

宮田「本当に?!」

ジョー「そうだよ!」

宮田「時間があと10分ほどなので、みなさんからの質問をひとつだけ」

観客「ウィリー・コローンも同じ67年のデビューですが、お互いにどう思っていたんでしょうか?」

ジョー「当時、ミュージシャンは競争相手だから、お互いにしゃべらなかったんだ。彼も私も相手より上に行きたかった。野球やサッカーのようにみんな競争していたから音楽が、どんどん良くなっていったんだ。ブーガルー時代はそうやっていたけれどもそのあと変わっていったら、音楽もどんどんつまらなくなっていったんだよ。ミュージシャンがステージでしのぎあいをすることで、オーディエンスはダンスフロアで素晴らしい音楽を聴くことができていたんだ。ウィリー・コローンはだいぶ若かったんだ。ジョー・バターンは同世代の奴とはつるまないんだ。必ず年上の友達だった。14歳のころのガールフレンドは23、24歳だったんだ(笑)」

宮田「年上好きだったんだね(笑)」

ジョー「(笑)。彼女は俺が14歳だなんて知らないけど、ママは大激怒して棒をもって追い返していたよ。“なんであんな年増と付き合ってんだ”って怒ってね。それまで(ガールフレンドは)気が付いていなかったはずさ(笑)。みんな今日のショーの目的を知ってるね?みんなに週末のコンサートに足を運んでほしいからさ。宮田信はニューヨークに電話をかけてきて″2か月家賃を払えていないから東京にきてよ“っていうんだ(笑)。もちろん答えは“OK”さ!だから歌いに来たのさ。週末に予定がなければ、遊びに来て踊っていってよ。いい時間になるよ。みんなが来てくれたら、僕らはシンの家でもパーティーできるから(笑)」

宮田「喜んで、パーティを開かせていただきます(笑)。みなさん、彼はこういう人なんです (笑)。サービス精神がとても旺盛です。去年のショーは本人もお客さんもみんな泣いちゃった。こういうのが本当のライヴだって教えられました。たくさんの人に体験していただきたい。すばらしいミュージシャンを集めましたし、食べるものもいいものをいっぱい用意してあります」

(書き起こし、構成・文責/服部真由子)