『CHICANO SOUL』日本語版クラウドファンディング応援決起集会トーク・ショー

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音楽ガイド・ブック『CHICANO SOUL』日本語版タイトルの翻訳・出版、そして著者であるルーベン・モリーナ氏の来日出版記念イベントを実現させることを目標にしたクラウドファンディングの締め切りが10月31日に迫っています。(※目標を達成し、プロジェクトは成立、2020年夏ごろに出版が決定しました)
チカーノ・ミュージックの紹介を続けるMUSIC CAMP, Inc./ BARRIO GOLD RECORDSの宮田 信によるプロジェクトの一環として、10月9日に<『CHICANO SOUL』日本語版クラウドファンディング応援決起集会>が下高井戸JAZZ KEIRINにて開催されました。レコード店TRASMUNDO(トラスムンド)店主・浜崎とDJ HOLIDAYをゲストに迎え、多くのチカーノ・ミュージック・ファンが集うなかで2時間を超えて行なわれたトーク・ショーの模様をお伝えします。

宮田「本日は『CHICANO SOUL』の日本語版クラウドファンディングの総決起集会にご来場いただきまして大変ありがとうございました」

浜崎・DJ HOLIDAY「ありがとうございます」

(場内から大きな拍手)

宮田「ありがとうございます。宮田と申しまして、プロジェクト発起人で翻訳をします。80年代からずっとチカーノ・ミュージックが好きで、自分の仕事になりました。浜ちゃん(TRASMUNDO浜崎)や、TRASMUNDO周辺の人たちが、チカーノ(・ミュージック)の魅力をちゃんと感じ取って広めてくれた、そういう動きがこの本『CHICANO SOUL』を日本語版化させようという気持ちになりました」

浜崎「TRASMUNDOはヒップホップ、ハードコア・パンク、それからクラブ・ミュージックをメインにいろんなものを扱って、東京を中心に出会った人たち、カッコいいことをやっている人たちを広めてようとしています。宮田さんはチカーノやアメリカの西海岸を中心とした音楽を背景も説明しながら、紹介している。俺は俺で地域が違うだけで感覚としてやっていることは同じ。お互いに背景や文化的な部分をもっとみんなが知ってくれたらと続けて現在に至ってます。宮田さんがやっていることにはリスペクトと愛がある。俺の店に来ている人にも伝わってほしいですね」

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宮田「チカーノ・ソウルは今、流行りみたいなところもあって。これまで扱っていなかった輸入盤屋さんで並んでいたり、プレミア化したり、7インチが競い合うようにインスタにアップされていたり。この本を絶対日本語版化したい気持ちとともに“なんかちょっと違うんじゃないか”っていう気持ちも正直あります。今日はそういうところも含めてチカーノ・ソウル、チカーノ・ミュージック、チカーノ・カルチャーの魅力をお伝えしたい。よろしくお願いいたします」

浜崎「よろしくお願いいたします。なんにも決めてないですよね(笑)」

宮田「そうですね(笑)。今日は資料をコピーしてお配りしましたが……」

DJ HOLIDAY「テキスト(笑)」

宮田「テキストですね(笑)。授業のテキストは『ローライダー・マガジン・ジャパン』のコピーです(笑)。これ、ローマガの、(CRAZY) KENさんが表紙のものです(注:2008年10月号)。当時ロスアンゼルスでエル・チカーノやウォーが出演するショーがあって、そのレビューとエル・チカーノの女性メンバー、エルシ・アルビスにインタビューをしたものです。特に注目をしてもらいたいのはライ・クーダーがプロデュースした彼女のソロ・アルバム(『FRIENDS FOR LIFE』2008年)に収録された<エン・エル・タンボ>という曲についてのエルシのインタビュー。“タンボ”はチカーノ・スラングで“刑務所”のこと。エル・チカーノが刑務所へ慰安公演に行ったら、いとこがそこにいた、というエピソードを歌った素晴らしい曲です。いまだに僕にとってはチカーノ・ソウルという言葉にはチカーノたちが味わってきたこういう“苦み”が含まれます」

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DJ HOLIDAY「チカーノ・ソウルの厳密な定義ってあるんですか?」

宮田「チカーノ・ソウルは(著者の)ルーベンさんが作った言葉ですが、もともとはラテン・オールティーズ、バリオ・オールディーズ、バリオ・ソウル、ローライダー・オールディーズなどと呼ばれていました。バリオで人気のソウル寄りの曲を集めた海賊盤がたくさんあったんです。たとえば……この『AZTECA GOLD(アステカ・ゴールド)』という海賊盤では、ラテン・ロック、ジョー・バターン、R&Bが収められています。こんなコンピ盤が70年代後半から売られていました。こういう感覚はずっと以前からあったものですね」

DJ HOLIDAY「マロやウォーはメンバーの人種が混ざってますよね」

宮田「人種はあんまり関係がないんです」

DJ HOLIDAY「そうですよね」

宮田「ええ。ウォーなんて完全にチカーノたちはチカーノが演奏していると思っている節もある。」

DJ HOLIDAY「意識として?」

宮田「意識として“自分たちの音楽”だと思っています。マロも<SUAVECITO>っていう曲は完全にチカーノ・ソウルですね。確かに60年代、70年代初頭までのサン・アントニオそれからロスアンゼルス周辺では7インチでR&Bの音楽が録音されていますが、バリオの住人はチカーノ・ソウルとしての表現は<SUAVECITO>や、ウォーの<ALL DAY MUSIC>を最初にみんな意識をしたと思います」

DJ HOLIDAY「俺、ちょっと勉強したんですけど(笑)。(チカーノ・ミュージックへの)白人音楽の影響をちょっと調べました。当時アメリカへの移民はラティーノよりドイツ系が多くて、ドイツ系の人はチェコの影響でポルカが好きだったって。ポルカがフォークになってその後、レス・ポールみたいな人達が出てきて、それがテハーノ(・ミュージック)になったとあったんですけど」

宮田「19世紀後半から20世紀前半にかけてメキシコの北部からテキサスあたりの地域に多くのドイツ人が移民しています。そこでアコーディオンと一緒にポルカがメキシコ人に伝わって、メキシコ人のものになっちゃった。テキサスのTEXMEX(テハーノ・ミュージック)のもとになるものはポルカですね。テキサスではコンフントと呼ばれる楽団がいます。アコーディオンとバホ・セスト(注:12弦ギター)、それから歌手がいて、あとはベースがいます。ドイツ、それからポーランドなどの影響を受けています。それがテハーノ~ラテン・ソウル~チカーノ・ソウルとなっていったのはすごく面白い話ですね」

DJ HOLIDAY「後にカントリーにもなっていって。マロの<SUAVECITO>のようにいわゆる普通のソウルではない、ちょっと揺れる感じがありますね」

宮田「あの揺れる感じは……マロはサンフランシスコのグループで、メンバーのホルヘ・サンタナはヒッピー的な感覚があった。彼らがいたミッション地区はキューバ人が多く、アフロ・キューバンの影響も受けています。パーカッションが入るのはカリフォルニアのチカーノの特徴です。テキサスのチカーノたちはマリアッチを弾いたりと正統派、カリフォルニアのチカーノたちは革命的、政治的なアクションを起こす人たちだと考えられる傾向にあります」

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DJ HOLIDAY「サン・アントニオにはなぜ(ミュージシャンが)多いんですか?」

宮田「サン・アントニオは1848年まではメキシコの土地でしたが、戦争で負けてアメリカのものになってしまったところに仕事を求めて人がたくさん集まってきた。ウエスト・サイドというところがバリオになって。その隣は黒人街なんです。たとえばサニー・オズーナはコンフントと呼ばれる伝統的な音楽ではなくて、仲間にたくさんいる黒人たちから影響を受けてR&B、ドゥワップ、70年代ソウルをやったわけです。『CHICANO SOUL』を訳していくと、チカーノ・バリオでソウル系の音で成功したバンドは自分たちの力試しで黒人街で演奏していたことがわかります。それから黒人のラジオ局にも影響を受けていてロスアンゼルスは完全にラジオの影響ですね。マーケットのためには伝統的なランチェーラを演奏しつつ、そのなかの1曲だけ “こういうものが好きなんだ”とソウルをやったっていうのがチカーノ・ソウルの魅力なんです」

DJ HOLIDAY「B面だけ、とか」

宮田「そういう感じですね。サニー・オズーナも実はスペイン語の曲が多い」

浜崎「じゃあそういうやつを1曲かけましょう」

宮田「ロス・ムチャーチョス、『Frijolitos pintos』(1966年)。これもルーベンさんの本の中で触れられています。ほとんどの曲がランチェーラですね」

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観客「これはマリアッチが演奏するような音楽だと思うんですが、ルーツ的な音楽なんですか?」

宮田「そうですね。大衆音楽です」

観客「演歌みたいなものですか?」

宮田「演歌とは違いますが、その地域での一般的な、常識的なメイン・ストリームの、自分たちの人生の応援歌のような音楽です。アメリカン・トップ40になるような音楽も聴かれますが、週末のダンス・パーティとかではランチェーラでみんな踊る。わかりにくいですよね(笑)」

観客「伝統的な曲でも歌詞を追ってみると、こんなに楽しげな音楽なのに歌詞が政治的だったりする。チカーノたち、メキシコの人たちが経験してきたことが反映されているのでしょうか?」

宮田「今のラティーノと当時のチカーノの状況は全然違うと思います。これから紹介する曲のように英語で歌うことは伝統的なチカーノのコミュニティに対して当時の新しいアクションだった。一方で若い世代のチカーノにとっては自然なことでもあった。直接的に政治については語っていませんが、自分たちの立ち位置やアクションを語っている。ルーベンさんはとてもリベラルな人で、具体的には書いていませんが、本の中で匂わせています。政治的にならなくちゃいけない、聴く側も政治的な人間でないとこういう音楽の面白さはわかりません。この本も政治的なアクションでもあります。……では同じアルバムから、とんでもない曲を聴いてください」

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浜崎「“こういう感じ”ってどうやって始まったんですか?(笑)」

宮田「僕もわかんないです(笑)」

浜崎「こういう曲調、あるじゃないですか。誰が始めたのかな」

DJ HOLIDAY「これはドゥワップですよね?」

宮田「これは録音が旧いので、ドゥワップ的な影響がとても強いですね。このあと、いや常にチカーノたちはR&B、黒人音楽の影響を受けていて、90年代のチカーノ・ヒップホップも同じです」

DJ HOLIDAY「チカーノ・ラップ・ブームみたいなのちょっと前にあって、僕はあれでぐにゃった部分があるんですけれども」

宮田「ぐにゃりましたね(笑)。相当」

DJ HOLIDAY「チカーノくくりみたいなので、ひとくくりに一緒に売られてたっすよね」

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(マイクが突然、くぐもった音でハウリングする)

浜崎「お、なんだ?」

DJ HOLIDAY「だよねーって(笑)」

宮田「(笑)。チカーノ・ギャングスタの限られたものがチカーノくくりで売られていましたね。ギャングスタ・ラップも実際に素晴らしいシーンもありましたが、ブームが終わってなにもなかったかのようにしている。今、チカーノ・ラップ人気がないのでガンガン聴いてます(笑)。すごく良いものたくさんあります。今度はチカーノ・ソウルが同じようになるのは“ちょっと困っちゃうな”っていうのが正直なところですね。チカーノ・ソウルがこういうランチェーラのアルバムの中で生まれたことは知られずに(特に日本では)断片的なものだけが伝わる。背景や周辺を知って深みを楽しんでもらいたいなと思います」

DJ HOLIDAY「リアルタイムでチカーノ・ソウルはどういったシチュエーションで聴かれていたんですか?」

宮田「それは想像を巡らせてみないと。チカーノ・ソウルをチカーノ・カルチャーの感覚で言うならばアメリカ的。僕の教科書である昔のUS版『LOWRIDER MAGAZINE』の記事や広告を見るとチカーノ・ソウルだけでなくてメキシカンの音楽もディスコ、サルサまで出てくる。多様性があります。おそらくBBQやパーティで、クンビアとかと一緒にチカーノ・ソウルも流れていたんじゃないのかな」

DJ HOLIDAY「それはラジオで聴いていたんですか?当時レコード・プレイヤーってもしかしたら高かったのかな」

宮田「レコード・プレイヤーはどこの家にもありました。僕が暮らしていたメキシコ人の家にもありました(笑)。当時はシングル盤を5枚くらい重ねて、終わると次のレコードが入ってくる画期的なシステムのプレイヤーがありましたね。多様性の例として“イーストL.A.のモータウン”と言われたRampart Recordsのエディ・ディヴィスが声をかけてイーストL.Aのチカーノたちの演奏を集めたコンピレーション盤『WEST COAST EAST SIDE REVUE』(1966年)という有名なアルバムがあります。そのVOLUME 1ではSIDE 1がROCK、SIDE 2がBALLAD。要するにBALLADが後のチカーノ・ソウルです(笑)。アメリカで生まれたハイブリッドなチカーノたちにとってはロックのなかのバラードっていう解釈だったのかな、というヒントがあります。VOLUME 2は、見つけたらポスターがついているかはチェックしてすぐ買ってください。これ68年当時のポスターなんですけれど……」

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DJ HOLIDAY「かわいいですね」

宮田「かわいいんです。何が言いたいかっていうと、サイケデリックの影響を受けています。サイケデリアは人種を越えて60年代後半にはR&Bにもラテン音楽にも大きな影響を与えています。続いてよりレアなものだと、『Salesian High School Rock n Roll Show volume 2』。イーストL.A.の高校の音楽の先生が、貧しいバリオの若者たちを不良にさせないためにバンド合戦をさせていたんです。高校生のリル・ウィリー・Gが参加しています。すごいんですよ、アイドルだから」

DJ HOLIDAY「歓声とか、入ってるんですか?」

宮田「(笑)。聴いてみましょう。 ジ・ミッドナイターズ、リル・ウィリー・Gが歌っています」

DJ HOLIDAY「歓声がすごい(笑)」

宮田「チカーノ・ソウル好きな人は高校の名前を絶対覚えておかなくちゃいけません(笑)。僕なんか高校の卒業アルバム集めてます (笑)。イーストL.A.にはいくつか重要な高校があってリル・ウィリー・Gをはじめ60年代のチカーノ・ミュージシャンが通ったルーズベルト・ハイスクール、ロス・ロボスのメンバーがいたガーフィールド・ハイスクール、そしてバンド合戦の先生がいたサレジアン・ハイスクール。ちなみにルーズベルトとガーフィールドは当時、日系人の学生も沢山いたそうです。やっぱり日系人のなかにもリル・ウィリー・Gの<DREAMING CASUALLY>をカヴァーするバンドがいたり、チカーノたちとミックスしていたみたいです」

DJ HOLIDAY「当時、有色人種がバンドをやるのは難しかったのでしょうか?」

宮田「演奏するよりも、演奏する場所を探す方が大変だったでしょう。こんなにチカーノのバンドがたくさんあったのは、バンドが生きていける環境があったから。チカーノたちはお祭り好きで、キンセニェーラっていう15歳の誕生日、日本でいう成人式みたいなイベント、週末の教会でのパーティや親戚が集まって行うBBQでも必ずバンドが呼ばれます。クンビアもランチェーラもやらなきゃいけないけど、若い人に向けて、チカーノ・ソウルも演奏されていたはずです」

観客「チカーノが黒人の音楽やカルチャーに憧れていることに対して、黒人たちはどういう反応だったんでしょうか?」

宮田「ウォーのロニー・ジョーダンは“家のそばから聴こえてくるマリアッチやラテンの音楽がすごく魅力的だった”と話していました。自分たちの音楽に取り入れてみたい、そんな気持ちがあったんでしょうね」

観客「チカーノは黒人がライヴをやる場所に簡単に行けたんですか?」

宮田「分断されていたと思います。ヴィレッジ・カラーズというバンドの<HECTOR>という曲がラジオでヒットしました。ある日ライヴに呼ばれて、対バンがアル・マッケイもいた103丁目バンド(Charles Wright and The Watts 103rd Street Band)。ヴィレッジ・カラーズのメンバーから訊いたんですが、黒人のオーディエンスの前で彼らが<HECTOR>を演奏したら“あれ、この曲ってこいつらメキシカンだったんだ”って反応だったらしいです(笑) 」

浜崎「本の説明をしてもらえますか?」

宮田「これがオリジナルの初版本です。当時の写真が全部カラーで掲載されています。ルーベンさんがミクトランという出版社を立ち上げて、発表しました。本当に貴重な内容で、40年代のロスアンゼルスの話から始まって、50年代のサン・アントニオの話、アルバカーキ、ニュー・メキシコやコロラドへと場所と時代をうまく構成しながら複合的にチカーノ音楽を解説しています。この本の魅力はルーベンさんのストリート的な視点、感覚です。ルーベンさんはフロッグ・タウンというバリオ出身の人で、彼のすごいところはチカーノ音楽だけではなく、どんな音楽でも好きなんですね。元々はローライダーで、苦い経験もたくさんしてきている人です。だからチカーノの居場所、音楽……チカーノに対する殊更の愛情がこの本を支えていて、自分たちは何者かを音楽を語って伝えています。昔ルーベンさんと一緒にサン・アントニオのバリオを回って見つけた写真がこの本に多く掲載されています。貴重な写真ですね」

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DJ HOLIDAY「その時から本を作ろうとして動いていたんですか?」

宮田「はい。以前からルーベンさんは自分が親しんできた音楽を広めたいという気持ちが強かった。自分でCD-Rに好きな音源を集めて、友達に配っていました。日本人でよくチカーノの音源をミックス・テープに入れて売っている人いますけど、ホントに注意して欲しいです。彼等の生活や文化を知らずに表面的なことだけで夢中になっているとみられると、痛い目に遭いますよ。荒れているところから出てくるものだから、怖い。怖いけど面白いです。ちなみにチカーノは仲間のことを “カルナール(血を分けた兄弟)”と呼びます。チカーノと付き合う時にはそういう関係性を要求される。だからこの日本語版はちゃんと成功させなきゃいけない (笑)。そしてルーベンさんの本は70年代までの話ですが、今日はそれ以降もチカーノ・ソウルの精神・スタイルが続いているということをみなさんにお伝えしたい。これからお聴きいただくのはティエラの<TOGETHER>(1987年『CITY NIGHTS』収録)という曲です。実はこの曲にはスペイン語ヴァージョンがあって、僕が初めて知ったのはいわゆるR&Bしかかけない黒人のラジオ局で朝オンエアされて、“これスペイン語だ”って感動しました。当時リリースされた12インチにしか収録されていません。こういった文化的な融合はたくさん見受けられます」

宮田「ファンディングにはいろんな特典コースがあって、宮田が案内するイーストL.A.ツアーもあります。これはレコード屋さんやミュージシャンの家に行くとか今、アイディアを考えてます。手付金ですからいくら請求されるか、わかりません(笑)。いやいや、大丈夫 (笑)。話は変わりますが、我々MUSIC CAMPはチカーノの音楽と陸続きにある音楽や、アメリカでラティーノたちに今、起きていることをもう20年死に物狂いで紹介してきました。近々フロール・デ・トロアチェというマリアッチの女性グループを呼びます(注:2019年10月19日20日に終了)。彼女たちはもともとザ・ブラック・キーズのメンバー、ダン・オーバックのバック・バンドやチカーノ・バットマンの最新作でコーラス隊を務めたり、いろんな背景を持つ女性たちが、“マリアッチって面白いかもしれないね”ってはじめたバンドで、ぜひ観ていただきたい。チカーノ・ソウルともつながっています」

観客「ここ1~2年の話を訊きたいんですけれども、若い世代の人たちは過去の音楽をどうとらえているのでしょう?」

宮田「その視点は僕も意識していて、音楽というよりはファッションから80年代の一番ハードコアだった時代のサブカルチャーがリバイバルしています。チョロ(チカーノ・ギャング)のファッションをしたり、70年代のレアな改造をしたローライダーに乗ったり。学校では教えてくれない自分たちのコミュニティを映画とか音楽、雑誌から知るのは若い世代にとって政治的なアクションです。ローライダーがアステカの模様をペイントすることは自分がメキシコ人であることの誇りを表しますが、一方で昔からバリオで暮らしてきたゴメス(デイヴィッド・W・ゴメス)やエル・ハル・クロイのドミニクの世代は当時バリオの大きな問題であった暴力やギャングで悲しい経験をたくさんしているので、苦々しく思っている人もいる。そういうことが続いての、今なんです。新しいものを否定することは簡単ですが、どう理解しようとするかチカーノ・コミュニティも悩んでいるところだと思います。音楽的にはボビー・オローサのように人種を越えて白人、黒人にもチカーノ・ソウルのコンセプトに沿った音の作り方が広がっています。」

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観客「ルーベン・モリーナさんのインスタグラムでは、よくBIG CROWNを紹介していますがBIG CROWNはニューヨークのレーベルですよね?」

宮田「そうです。最近はBIG CROWNがブレインストーリーなど西海岸のチカーノのシーンをフォローしていてチカーノ・バットマンのレコーディングをしたのもBIG CROWN周辺の人たち。ボビー・オローサは来月、初めてアメリカでライヴします。そのツアーではBIG CROWNのアーティストが出演して、ルーベンさんとBIG CROWNのダニーという若いプロデューサーがDJをやります。……DJ HOLIDAYさん、行きましょうね?」

DJ HOLIDAY「がんばります(笑)。このプロジェクトはすごく意味のある本、意味のある事だと思います。BET ON USって感じでお願いします、ありがとうございました!」

(構成/文責・服部真由子)

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