日本人は規律正しく連帯感があるという評価を鵜呑みにしてはいけない
海外の方から、日本人は規律正しく連帯感があると見られている。コロナ禍のなか、要請だけで7割が自粛する日本人は素晴らしいという評価もある。それを聞いて多くの日本人は、日本人であることを誇りに思う。
果たしてそれは本当の姿か。例えば、優しさという長所は、言い換えれば優柔不断というように、規律正しさは、言い換えれば、周りの目を恐れ、相手に付け入る隙を与えまいとする防衛行動の結果ではないか。連帯感は、相手の言動や社会のルールに不信感や疑問を抱きつつも、相互監視による袋叩きに怯え、声を上げられなくなっているだけではないか。
江戸時代、五人組という制度があった。近隣ごと五戸を一組として組織化し、連帯責任・相互監視・相互扶助を行わせた制度で、領主はこれを利用して治安維持・内輪争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底を図っていた。
さらに遡ると、五人組の起源は、古代律令制下の五保制(五保の制)にあるといわれている。その後、1597年(慶長2年)豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士や農民ごとに五人組を組織させていた史実もあるなど日本古来の制度だ。
ときに五人組制度において扶助しあうといった良い面もあったかもしれない。しかし、それは始めのうちだったり、均衡が取れていたり、豊かな場合に限られたのではないかと思う。ざんねんながら余裕が無い人間は保身に走る。犯人探しに躍起になり、妬みから他人を貶めもする。現代のような法制度もない時代、偏見による冤罪も多かったのではないかと思う。規律から外れた者は晒され石を投げられ村八分にされるといった社会的制裁を受けた。実際、「村八分」という言葉は、五人組制度における私刑が由来だ。
現代に話を戻そう。先進後退国といわれる日本、国単位ではIT化に乗り遅れ、格差はますます広がり、終わりの見えないコロナ禍に見舞われ、それでも行政は国民を救えない。そんな時代だ。誰にも余裕などあるはずが無い。
余裕のない我々は、互いに監視し、相手の付け入る隙を探し、匿名で他人に社会的制裁を加える。そしてそれが正義だと、自分の行いは正しいと信じ込んでいる。匿名性が攻撃性を増す要因ではあるが、五人組制度から続く相互監視という文化や不寛容さが、そうさせている気がしてならない。
古い既成概念に蝕まれた年長者だけではない、社会に見捨てられた者たちも、妬みを持つ者も、本心を隠して正義の名のもと袋叩きに加わる。もはや声を上げる者、自ら行動する者だけではない。規律からほんの少しはみ出た者ですら標的にされ社会的制裁という私刑を受ける。サイレント・マジョリティは、無関心を装いつつ明日は我が身と身を潜める。
結果、何も考えず、何も変えられず、自分すら守れない。気付かず互いの首を絞めている。それが現代の日本人の本当の姿だ。
日本人は、規律正しく連帯感があって素晴らしいといった表面的な評価を喜ぶのはもう止めよう。互いに首を絞め息ができないともがく日本人。わたし達は現実を正しく見なければならない。老若男女問わず、人として個として本来どうあるべきか?こんな時代だからこそ自問自答し、他人を慮り、未来を見据え、本当の意味で助け合う、世界に誇れる日本人になりたいと願う。皆さんはどうか。