登拝の笑顔の、その先に
京都の伏見稲荷大社を参拝し、神が宿る神体山である稲荷山を登拝した日の、夜。
楽しそうに山を往来している大勢の人の夢を見ました。
人々は和服を着ていたから、昔の時代なのでしょうか。
みんなは本当に楽しそうに、山道を笑顔で歩いていました。
その笑顔が印象的で、目が覚めてから自分は、今まで思い違いをしていたことに、気づかされました。
娯楽が今よりずっと少なかった時代。山を参拝するという体験は特別で、刺激的で、しかも「楽しむ」要素もかなりあったはずです。
夢に出てきた人々は、年に一度の参拝だったのかもしれませんし、一生にたった一度だったのかもしれません。
山の神様は、そんな巡礼者たちの記憶を、今でも留めていてくださっているのかもしれません。
これは、翌日に三輪山(大神神社の神体山)を登拝したときにも感じました。
三輪山が静かで厳かなのは、古代より厳粛な気持ちで登ってきた人々の信仰が「層」になって形成されているからで、三輪山登拝で感応したり体験するのも、その古くからの「層」と共鳴しているのだと感じ取れます。
磐座があるとはいえ、上から降りてくるものだけではないように思います。
昔の富士山は、登山道のあちこちに弁才天や大黒天の御社が建てられ、登山者(というか参拝者)がそこでお参りをしたり茶屋に入っては楽しむ、今でいうテーマパークのような場所であったと聞いたことがあります。
もっとも今は、茶屋(参拝所を兼ねる)もなくなり、名称と廃屋が残るのみです。
それでも昔のみんなの笑顔の記憶は、今も山の神様が留めてくださっているのかもしれません。
現在、稲荷山を登る何割かは外国人で、写真を撮ったり、はしゃいだりしていて、楽しんでいるように見えました。
所々の御社で参拝するという習慣は、彼らにはほとんどありません。
でも冒頭の夢の中で、
「祈りに来る者が正しいわけでもないし、祈らない者が間違っているわけでもないのだぞ」
と諭されたような気がしたのです。
みんなの笑顔や楽しみを本質とするのは、仏教でいえば「慈心」です。
山の神様というのは猛々しい面もありますが、きっと「慈心」の本質も備えていると私は信じています。
山は「慈心」を与えてくれる場所でもあるし、「慈心」に気づかせてくれる場所でもあります。
そして人も、登拝を楽しむことで「慈心」を山からいただき、世俗にそれを持ち帰ることで、普段の生活をより豊かで幸せにすることができます。
現世的な幸福すらも、「慈心」がベースにあるのではないでしょうか。
登拝する時は、怒ったり悪口を言わず、晴れやかな心で。
そして他の人の楽しみを阻害しないよう、注意を払いつつ。
そして山には「いつも楽しい思い出をありがとう」と、祈りを捧げたいです。