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リップスティック(自作ショート・ショート)
その日僕は大学の4時間目の講義をさぼって、普段よりは静かな部室でアルトサックスのリードを削っていた。梅雨の気配がもうすぐそこまで迫っている初夏の日。少し湿り気味の空気は、まだ不快さを帯びず、ひんやりとした冷たい気配がむしろ心地良い。
口にくわえてみる。唇で感触を確かめまた少し削る。静かな棟内の気配に包まれながら集中していると、不意に誰かに肩を叩かれ振り向くと、一学年上の矢加部先輩だった。
「三坂君早いね。さぼり?」
肩を過ぎたあたりまで伸びた髪の毛先が、夏を待ち遠しそうに大きめに開いたTシャツの襟の縁にかかっている。
「はい。西洋史の佐々木の授業、退屈だし出席もないからまあいいかなって。理沙っち先輩も?」
名前が理沙で、同級生や上級生からは理沙ッちと呼ばれているのを、僕たち下級生はそれに「先輩」をつけて「理沙っち先輩」と呼んでいた。
「今日は4時限目休講。誰かさんと違って私まじめなの。リード削ってんの?」
「先週買ったばかりなんですけど、なんか固いというかちょっと気に入らなくて」
「ふうん。デリケートだね。」
「音もそうなんですけど、唇も荒れるし」
「どれどれ」
そう言いながら不意に先輩が僕の顎を手で軽く引き上げ、顔を覗き込んだ。顔が近くて少しどぎまぎした。きっと目をきょときょとさせていたんだろうな。
「キスでもされると思った?ふふっバーカ。顔に書いてあるわよ。ほら、これあげる。」
ひょいっと投げてよこされた物を慌ててつかむと、メンソレータムのリップスティックだった。白地にグリーンのシンプルなデザインの小さなスティック。
「それだったら今の季節でもさっぱりするし、男の子でも大丈夫でしょ。あげるよ。付けてみなよ」
「あっ、でもこれ先輩が使った後じゃ・・・」
「なあに、私が使った後じゃ汚くて使えないっていうの?」
「あっ、いえいえそんな意味じゃなくて」
一見、人形を想わせる、少しか弱さすら感じる色白で整った外見にも関わらず、さっぱりとした性格と男勝りのあけすけな物言いのギャップで、部活内でもひと際目立つ存在だった先輩。
「じゃあどんな意味なんだ。あー、まさか三坂君。間接キスとか意識してんじゃないだろうね。このむっつりスケベ!」
「なんでそうなるんですか~」
もちろん意識していたけれど。
「じゃあ使ってみなよ」
「あっ、はい。でも・・・」
「でも何だよ」
「なんか塗ってるの見られるの、恥ずかしいじゃないですか。慣れないし」
「男の子だねえ。じゃ、あっち見てるからはいはい、ササッと塗って」
「って、なんか服脱ぐシーンみたいじゃないですか」
「はいはい。やっぱりむっつりスケベじゃん。ほら、私が塗ってあげる」
不意に手を伸ばしリップスティックを僕の手から奪うと、目の前に立ってキャップを手早く開けてくるくると回し、僕の顎を引き上げた。
「えっ、あっ」
「はい。唇動かさない」
微かに香ってくる先輩の香水と、顎に触れる指先の感覚と、あまり触れられ慣れない唇にまとわりつき始めた少し粘着質のジェルの感覚にやり場がなく、思わず目を閉じた。
メンソールの香りが鼻腔を強く刺激する。
静かな無言の時間が少し流れ、そしてメンソールのスティックが唇から離れたと同時に目を開けた。
いたずらっ子のように笑っている先輩の顔が目の前にあった。驚く暇もなく、柔らかい唇の弾力が僕の唇を覆った。
そしてまた、静かな時が流れる。
「ふふっ、間接キスしちゃったからついでにキスしちゃった。みんなには内緒ね」
「えっ、あっ」
「じゃあ、私、今日はバイトだから帰るねえ。じゃあねえ。」
先輩が帰った部室で一人、リードとリップスティックを持ったまま呆然としていた。そしてなんだか、リードを唇にくわえてサックスを吹くのももったいない気がしてきて、僕もそそくさと帰り支度をした。
リップスティックもしっかり鞄に入れて。