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ハザマ、いとをかし
人間っていろんなものに名前をつける。
名前がないと不便だし、落ち着かないからなのか、
コミュニケーションが取りにくいのか。
まあ、こんな言語学者や文化人類学者がとっくに答えを出しているだろうことを、また、一人妄想してみる。
「あっちの方のこんな形の山の近くの、こんな顔した人の家の裏側の、こんな葉っぱの大きな木の近くに、すごく大きな美味しそうなこんなのがいたから、一緒に獲りに行こう!」
とか
「あのおっきな明るいのがなくなって、暗くなったら出てくる丸くなったり細くなったりする黄色いやつをみんなで観よう!」
とジェスチャー混じりのまどろっこしいことなんかやってらんない!となって仲間で理解し合える名前をつけていったんだろうか。
あるものに名前がつけられた瞬間、それとそれ以外になる。
便利になる。
でも、また問題が出てくる。
明るい時を「昼」、暗い時を「夜」と名付けた時、どこまでを「昼」として、どこからを「夜」と呼ぶのか。
はっきりしないから、その間を「夕方」と言ったり「黄昏時(タソガレドキ)」と呼ぶことにしようとなる。
じゃあ、それはどこから?
とこんなふうに名前をつけると、それとそれ以外の境界線ができるけど、それにはいつも幅がある。
物と物に挟まれた空間、狭間(ハザマ)。
水(海・川)と陸の境界線、水打ち際(ミギワ)
どちらでもなく、どちらでもあり、どちらにもゆける場所。
自分自身がそんな状態でありたいという想いから、私はアーティスト名として「汀(みぎわ)」を使っています。
心と体
男と女
物質と精神
白と黒
虚と実
何事もはっきりと分けることができない、
元々分かれているものではないから。
でも、分ければ、別れて、判りやすくなって、安心するのかなぁ。
私自身も、知らず知らずのうちにいろんなものを分けているけれど、はっきりさせずぼんやりさせておきたいことも沢山ある。
そんなことを日々思っている私が創った作品
「記憶のハザマ」2020年
両極なものの境い目は、実はだいたいがはっきりしていない。
かけ離れたものの間だけではなく、隣り合うもの同士の境い目もしかりだ。
記憶の虚実、物事の善悪、好き嫌い、光の色、時代の移り変わり、諸々のものはキッパリと線を引いて分けることは出来ない。
だいたいが徐々に、段階的に、もしくは入り混じりながら移り変わっていく。
その朧げなゾーンがハザマ。
多くの事実は、どちらともつかぬそのハザマの中に存在しているようにも思えるのである。
OSS(大阪ショドウショウ)2020出展 展示壁面
2020年
紙・ボンド墨(パネル仕立て)
こうしていろんなハザマの朧ろなところに存在しながらも、何かと何かを分けずにはいられない人間の営みを「いとをかし」と思い、私は作品を創っているような気がします。