不要と言われるのはつらいけど、不必要な存在でありたい。それでもやっぱり、他人には頼られたい。

最近、少しずつではあるが、スケジュール帳の空白が減ってきた。
去年の5月に入院をしてから入試が終わった最近まで、単発的な予定を除いて、多くの時間で自室に引きこもる生活をしていたのだが、ここ最近やっと予定が入り始めた。

思い返すと、学生の頃は、空白恐怖症のごとく予定が埋まっていないことに不安を覚え、スケジュール帳が埋まっていることである種の安心感を覚えていた。
しかし、暇な生活をこれだけ続けると、もはやスケジュールが入ることで自由時間が奪われることが怖い。
Zoomでたった1時間の打ち合わせがあるだけでも、前日から「明日は忙しいな」と感じてしまうほどだ。
打ち合わせが始まるまではめちゃくちゃ憂鬱だ。
それでも、打ち合わせが終わってみると達成感に満ち溢れ、自己肯定感がブチ上がる。
どれだけ頑張っても、「周りはもっと忙しい中で楽しそうにしているのに、この程度で良いのか」と常に劣等感に支配されていた頃と比べると、こんなにも考え方が変わるのかと、寝る前によく思う。
最近はこんな感じで、考え方に変化が起こっていることによく気づく。

学生時代に就職活動をしていた際、どの面接会場でも「社会から必要とされる存在になりたい」や「御社の提供する、社会に必要不可欠なサービスに魅力を感じていて」というようなことを決まり文句のように言っていた。
その度に人事担当者は満足そうな表情をし、お世辞か本音かはわからないけど「素晴らしい考え方ですね」と賞賛してくれた。

しかし、感染症の流行を経験し、その中で社会に必要とされるものに対する責任の大きさを痛感した。
必要とされているものを提供する立場の人間は、何かしらを提供する以上、それを提供できない状況を生み出すことがあれば、提供される側に不都合が生じる。
提供されるものの必要性が高ければ高いほど、それを提供できない状況が発生すれば、提供される側の不都合の度合いが高まる。
こんなこと、冷静に考えてみれば当たり前だが、リクルートスーツを着て企業を回っていた当時は、それほど深くは考えていなかった。

最近はむしろ、社会に必要とされない存在になりたいと思う。
責任も無く、ある日いなくなっても他人が深刻な困難に陥らない。
そんな人になりたい。
そうは言っても、「不要」というラベリングはされたくない。
自身の存在すら否定されるような「不要」な存在ではなく、必ずしも必要ではない「不必要」な存在でいたい。
いなくなったら「あいつ最近いないからちょっと寂しいな」と思われるのが最高だ。
20代も半ばになってこんなことを言うなんて我ながら恥ずかしいとも思う一方で、個人的には深刻な問題である。

そんなことを言いながら、「こういう場合どうすればいいですか?」や「こういうことをやってくれませんか?」と言われながら頼られると、やっぱり嬉しい。
その度に、結局は良いとこ取りをしたいだけなのだと気づいて、呆れる日々だ。

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