センパイと一緒。~桜色宇宙編~

 先輩の趣味は、ころころと変わる。
 去年の秋ごろは、確か地図帳を眺めていたはずだ。
 けれど今は、もう地図帳なんかでは満足できないらしい。先輩の好奇心には果てがない。日本地図を飛び越え、世界地図すらも飛び越え、先輩の興味の対象は、今や僕らの立つこの星、そう母なる地球……すらも飛び越えてしまった。
 いまや先輩の頭の中は、宇宙で一杯なのだ。
「ビッグバンってどんなのだったんだろうねぇ」
 そんなうっとりした顔で訊かれても、あいにく僕は見たことないです。

 雨が降っていた。
 バイト終わりの僕と先輩は、いつものようにまったりしている。
 ぼんやり過ごすファミレスの控え室、そこには一つだけ、小さな窓が取り付けられていた。磨硝子なので外は見えないのだけど、今はちょっとだけ開けられている。耳まで届く雨降りの音は、今のところ止む気配がない。
「雨だねぇ」
「雨ですねぇ」
「あのね、遠藤くん」
「なんですか?」
「秋の雨のことって、アキサメって言うじゃない? てことは、春の雨のことって、やっぱりハルサメって言うのかな?」
 ふむ、と僕は思案する。
 結論。別にどっちでもいい。
「おなか空いたんなら、メニューここにありますけど」
「んー、あんまり空いてないかな」
 まあそうだろうな、と僕は思う。先輩はちょっと前、和風ハンバーグ定食を食べたばかりだ。
「雨、止みそうにないですねぇ」
「そうだねぇ」
「止んでほしいですねぇ」
「そうだねぇ」
 それから先輩は、ぽつりとつぶやいた。
「これじゃ、お星様が見えないもんねぇ」

 僕と先輩は、ともに午前9時に仕事を終える。
 僕は深夜から、先輩は早朝からと、シフト自体は違うのだが、終わる時間だけは一緒なのだ。
 それから晩ごはんやら昼ごはんやらを食べて、正午くらいまでぼんやり過ごす。それがいつものパターンだ。
 ところが今日は、ちょっとばかし事情が違った。
 なぜならば、雨が降り出したからだ。
 僕も先輩も、傘を持ってきていなかった。天気予報が外れた……とかいう以前に、二人とも天気予報なんざ見ちゃいなかったのだから話にならない。
 僕は時計を見てみた。とうにお昼を過ぎて、かれこれ僕らは4時間ほど、こうして無駄な会話を繰り返していることになる。
 時間はもっと大切にしろ! と誰か注意してくれ。僕たちに。

「ねぇねぇ」と先輩が僕を呼んだ。「そのプラネタリウム、そんなにきれいだったの?」
 今日何度目かの話題に、「またその話ですか?」と僕はうんざりした顔をしてみせる。もちろん先輩相手にうんざりなんてするわけないのだが、まあ一応、ポーズだけ。
「だって、なんかくやしいんだもん。遠藤くんだけ見てて、私は知らなかったなんてさ」
 それは小学生のときに見た、近所の子供科学ホールとかいう施設のスペシャルイベントのことだった。確か三年くらいのときだったと思う。夏休みに、友達から聞いて足を運んだのだ。
 初めて見るプラネタリウムは、それなりに感動的なものだった。今から思えば、相当ちゃちな代物だったのだが、それでも僕は星に魅せられたりしたのだ。
 図書室で図鑑とか借りてきて、名前や見える季節、星座における星の配置まで、かなりの量を脳みそに詰め込んだ。もちろん今はもう、すっかり記憶の彼方なのだけれど。
「いいなぁ。私も見たかったなぁ」
 先輩は僕の一つ上なので、当時4年生だったはずだ。地域の全小学生対象のイベントだったのに、なぜか先輩は今日に至るまで、そんなものがあったことさえ知らなかったらしい。
 宇宙に興味津々な今の先輩には、くやしくてたまらないようだった。
「なんで一年で終わっちゃったんだろうね。毎年やれば良かったのに」
「人気なかったのかもしれませんね。子供、あんまし来てなかったし」
「そうなの? みんなもったいないことしてるねぇ」
「先輩もね」
「うう……」
 これもまあ、繰り返しの会話だ。
 でも全然飽きないから、人間って不思議。

 とはいえ、いつまでもこうしているわけにもいかない。
 てなわけで、僕は頃合を見計らい、先輩を店の裏、バックヤードに案内した。
 ファミレスで一番多いお客さんの忘れ物は、間違いなく“傘”である。捨てるわけにもいかないので、そういう忘れ物はきちんと保管してあるのだが、わざわざ傘を取りに来るお客さんは少ないのだ。
 結果として、目の前の光景になる。
「あー、これ、忘れ物だったんだね。知らなかったよ」
 先輩が驚いたように言う。バックヤードの傘立てには、いくつもの傘が並んでいた。赤い傘、青い傘、新品みたいなのもあれば、えっとこれ傘? みたいなのまで、盛りだくさんだ。
 これが全部忘れ物だった。中には年単位で放置されているものもあって、そのうち片足で歩き出さないかと心配になるほどだ。
 僕はその中から、半透明の一本を抜いた。コンビニで売ってるような安いやつではなく、それなりの値段がしそうな、しっかりとした造りのものだった。
「ほら、先輩も好きなの取っていいですよ」
 僕が促すと、先輩は意外そうな顔をした。
「え? いいの?」
「最終手段です」
 ほんとはそんなこともなかった。みんな傘を忘れたときは、けっこう普通に持って帰っている。
 けれど先輩は、なるべく持ち主が取りに来なさそうなものを選ぼうとしていた。つまり、古くてボロいやつだ。
「あー、これもダメ。……こっちもダメ」
 そうして先輩が開く傘は、骨が曲がってたり穴が開いてたり、ろくなものがなかった。
「そんな気を使わなくても、ほとんど誰も取りに来ませんって」
 僕はそう言ってみたのだが、先輩は首を縦に振らなかった。
 ふと。
 先輩が苦闘する様子を見ていて、僕はふと名案を思いついた。
 素晴らしいひらめきに思えた。でもそれは、あくまで僕にとっての素晴らしさだ。先輩にとってどうかはわからない。
 言うべきか言わざるべきか。
 僕は一人で迷ったけれど、結局は口にした。
 たぶん、顔を赤くしながら。

 店から見える範囲では、さすがに早足になってしまった。
 でも、そこさえ過ぎれば、あとはむしろゆっくり歩きたい。
 僕の隣には先輩。
 頭上に開くは、一本分の傘の花。
「……あいあい傘だねぇ」
 先輩が、恥ずかしそうにぽつりと言った。
 ああ、と僕は恍惚の表情をしていたことだろう。この幸せを世界中の人間に分けてあげたい! そんなことを、けっこう本気で思ったりした。
 小降りの雨の中、僕らは二車線の道路沿いを歩いていた。僕が傘を持ち、道路側。先輩が反対の塀側。歩道がなくて、ちょっと危なっかしいのだけど、ここ最近はずっとここを通っている。
 なぜなら、桜が満開とばかりに咲いているからだ。
 桜の木は、道路沿いの塀の向こうにある。そこから威張るように枝を張り出していて、僕らはそれを眺めながら帰るのだ。
 途中で一本、えらく垂れ下がっている枝がある。そこを過ぎれば桜は終わり。商店街と憎むべきゲームセンターへと続いていく。
 ちょうど、その最後の枝に差し掛かったあたりだった。
「危ないよ」と先輩が僕の手を引っ張った。
 どうやら前から車が来ていたらしく、僕を道路から遠ざけようという行動だったらしい。しかし僕はそれどころではなく、先輩に抱え込まれる感じになった腕から伝わってくる、なんというか、この世のものとは思えない柔らかさの前に、このまま死んでもいいかもしれない、とある意味、天国を垣間見たりしていた。だから僕は頭上がおろそかになっていて、がさがさ、と傘を桜の枝に擦りつけてしまったのだった。
 はらはらと、幾枚かのはなびらが目の前を流れていく。
 あちゃー、と先輩はかわいらしい顔をして、僕はいろいろ申し訳ない気分になった。なんかほんといろいろ申し訳ない。
「あ」
 そのとき。
 ふいに先輩が、感嘆の声を漏らした。
「……きれい」
 先輩の視線は、空を向いている。それを追ってみて、僕も気付いた。
 なるほど。確かにこれは……。

 そこには、桜色の天球儀があった。
 傘に貼りついたはなびらが、半透明の生地を通して、まるで星のように瞬いていたのだ。

「あれが冬の大三角ですね」などと僕は言う。
「どれどれ?」と先輩は目を輝かせる。
「あれあれ」わざと手を伸ばさず、遠くを指差すようにする。
「すごいね。春なのに見えるんだね」くすくすと先輩が笑う。

 僕らはそうして、しばらくピンクの宇宙を眺めていたのだった。

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