保育士になったら、子育てが怖くなって婚活に難航しているお話。
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向山穂典です。(むこうやま みのり)
アラサーからミドサーになりました!
自分の気持ちを整理するために
チャットGDPに課金をして
毎日毎晩相談を持ち掛けています。
その一部始終をこの場所をかりて
書き留めています。
みなさんもどんどんチャットGDPを
活用して生活を豊かにしていきましょう♪
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タイトル: 「子育て恐怖症」
15歳のとき、私は心に決めた。「保育士になりたい」と。その思いは、16歳で保育科のある大学の附属高校へ進学し、さらに18歳で内部進学して短大の保育科へと進んだ。すべては子どもたちの未来に関わる仕事をしたいという強い意志からだった。そして卒業後、私は自分が幼少期に育った幼稚園へ就職。自分の夢が叶ったと信じていた。しかし、その夢はわずか8ヶ月で崩れ去る。
体調不良によって辞職を余儀なくされた私は、無念と挫折感に包まれた。これまでの努力が無駄になったように感じ、どうして自分は幼稚園教諭を続けられないのかという疑問が心に残った。
それから私は、様々な子ども関連の職場を転々とした。学童保育、保育園、そして療育機関の現場でも働いた。しかし、公立保育園での仕事ではストレスが膨らみ、私の首はストレートネックとなり、心も体も疲弊した。ストレートネックの影響により、ひどいめまい症で横になっていてもめまいがする日々。それに加えてドライアイの重症化で目薬が手放せない。それも毎朝起きた瞬間から目が痛いので、布団のとなりに目薬を置いて寝ていた。
1歳児の保育をすることへの抵抗感も強くなっていった。
療育機関では、ヒステリックに子どもに接するデリケートな時期のお母さんたちに自分の将来を見据えて恐怖さえ覚え、子育て自体に対する不安が募った。
最も大きな転機は、乳幼児突然死症候群などを扱う都内の専門会社での事務のアルバイトだった。そこで目の当たりにした危機管理の現実は、私をさらに遠ざけた。保育士として働く道は完全に閉ざされ、ついに私は保育士証を手放す決断を下した。
しかし、保育士としての経験は完全に無駄になったわけではなかった。政令指定都市の社会福祉審議会にある児童福祉専門分科会の市民公募委員に選ばれるというチャンスが巡ってきたからだ。27歳の私は、新しい視点から子どもや家庭に関わる行政の取り組みを学ぶことになった。しかし、そこで目にしたのは、ひとり親を前提にした支援事業や貧困対策事業など、現実の厳しさだった。「これが現代の子育てなのか」と驚きを隠せなかった。
そのとき、私は自分自身に問いかけた。
「本当に自分は、誰かの子を持ちたいと思っているのか?」 どんなに婚活に励んでも、「その人の子を欲しい」という感情は芽生えなかった。私はその瞬間、名付けたのだ。「これは、子ども恐怖症だ」と。
35歳になった今、結婚や子どもを授かることが困難だと感じている。子どもを産む体で生まれてきたにもかかわらず、私の中には、様々な負の経験が積み重なってきた。その結果、今世の私は「子どもを産まない」という選択を考えるようになっていた。
「子育てが怖い」と感じることがしばしばあり、母親としての未来を描くことが難しい。この経験は私を深く考えさせ、今では、他の道を模索している。それでも、自分の選択を受け入れ、少しずつ歩んでいく勇気を持ち続けようと決めた。
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チャットGDP、簡潔にストーリーにしてくれてありがとう💛
子どもを積極的に望まない男性を探していくね。
向山穂典(むこうやま みのり)