【翻訳】王妃マリー・アントワネットの回想録
Mémoires sur la vie privée de Marie-Antoinette, reine de France et de Navarre (1822)
par madame Campan
著者カンパン夫人による序文
18世紀の終わりの何年かについて書かれた本の重みによって、図書館の棚板はたわんでいる。何人かの優れた人々がすでに、その才能を駆使して我々の革命の精神的、あるいは政治的な主な要因を指摘している。しかし、後世の人々は知りたがるだろう。革命勃発へと至らしめた、知られざる原動力が何だったのかを。大臣たち、あるいは寵臣たちによる回想録だけでも、我々の子孫の好奇心を満足させるかもしれないが、それらは限られたものとなるだろう。なぜなら、国王が誰かに完全な信頼を寄せることは非常にまれであったからだ。王が側近の一人に、彼の知られた意見と対立しない秘密の使命を与える。王はその側近に重要な案件の詳細をすべて明かす。側近は自身を重要な人物であると思い込み、そのように振る舞う。そして、彼の自尊心が自身を賛美し、虚栄心によって盲目となった彼は確信する。王は私に心を開いてくださった。彼は、君主の心が再び千のひだの奥にしまい込まれ、永遠に隠されるとは思いもしない。同じときに、他の側近の一人がおそらくそれとは対立する使命を受けるが、それは君主の本当の計画にさらに合致してはいないだろう。陛下にとって自分は、秘密を打ち明けることができる腹心の臣下である、とこの側近は考えるが、王にとってはたんなるお人好しの持ち駒のひとつに過ぎないのだ。どちらの側近も、王の考えを託されているのは自分だけだと思い込み、この間違った根拠の上に、ありもしない信頼の、想像の建物を築くのである。
宮廷におけるこのような駆け引きを国王が行うのは、とりわけ、様々な意見が交錯するとき、そのうちのどの意見もあからさまに採用することなく、人々を満足させたり、事態を落ち着かせる必要があるときである。しかし、このような偽った信頼の印をばらまくことを習慣としていると、結局、揉め事や反乱のときには、王は確固とした支えも、完全な忠誠ももはや見つけられないということになるのだ。
ルイ16世にはおびただしい数の腹心の臣下、顧問、指導者がいた。彼は敵対する反乱分子までも、登用することがあった。彼はおそらく、たった一人の人物だけにすべてを話すことは決してなく、ごく少数の者としか率直に話すことがなかった。彼は個々の謀(はかりごと)をすべて、自分で操ろうとした。きっと、彼の行動力の乏しさと弱さはそのせいである。その結果、革命の詳細な歴史に、大きな欠落が生じることとなるであろう。
ルイ15世治世の晩年を徹底的に知るためには、ショワズール公爵、エギヨン公爵、リシュリュー元帥 [1] 、ラ・ヴォーギュイヨン公爵の回想録が必要であろう。ルイ16世の不幸な治世について知りたい場合は、ミュイ元帥、モールパ氏、ヴェルジェンヌ氏、マルゼルブ氏、オルレアン公爵、ラ・ファイエット公爵、ヴェルモン司祭、モンテスキュー司祭、ミラボー、ポリニャック公爵夫人、リュイヌ公爵夫人といった人々が誠実な作品のなかに、彼らが直接関与したことをすべて記録する必要があったであろう。彼らはそのうちのいくらかに直接関わったのだから[2]。最近の出来事の内情は、非常に多くの人々のあいだに流布されている。何人かの大臣たちは、回想録を出版したが、その目的はもっぱら自らの仕事を正当化することであり、それらの回想録には、彼らの評判に関することだけが書かれている。このような動機による原動力がなければ、彼らはおそらく何ひとつ書かなかっただろう。普通、国王にもっとも近い人々は、それが生まれによるものであれ、職業によるものであれ、回想録など書かない。それに、絶対王政においては、大きな出来事の成り行きはたいてい、もっとも著名な人物たちだけが知りえた詳細と結びついている。いくつかの出来事だけしか関心をもたなかった人々が、そこに一冊の本の主題を見ることはない。公の事柄の重荷を長年背負った人々は、義務から、あるいは権威への尊重によって、自分にはすべてを話すことは不可能だと考えるだろう。あるいは、時間をもてあますようなときがくれば整理するつもりで、覚え書きをためておく人々もいる。しかし、それは野心家の無駄な幻想である。彼らのうちのほとんどにとって、この幻想はヴェールの役目をもつ。いずれ必然的にやってくる失脚の、みじめなイメージを彼らはこのヴェールで隠す。失脚のときが来れば、彼らは輝かしい時代を永遠に懐かしむが、絶望がそれを語る気力を奪うのだ。
だが、ある歴史家が、同時代人たちによる相反する内容の資料を前にしたとき、資料が足りなければ彼の困惑は倍増する。そのとき彼は慣例に従い、一般的に広まっている言説に頼る。彼は、憎しみやへつらいに満ちた、政治的な風刺画のイメージを踏襲する。中傷が果てしなく続き、高貴な人物の性格は永久に傷つけられたままになる。失敗した計画は犯罪呼ばわりされる。一方で、幸運な罪人は英雄になる。歴史はもはや、教訓ではない。それは中傷を含んだ不道徳で劣悪な小説や作品集であり、これらは、作者本人にさえ、おそらく、さげすみの笑みを誘うものであっただろう。
ルイ16世は回想録を書くつもりだった。順序よく整理された内密の原稿が、彼の計画を示していた。王妃もまた同じ構想を抱いていた。彼女は長年多くの書簡と、多数の非常に詳しい報告書を保管していた。それらの内容は、精神について、あるいは当時の出来事に関することだった。しかし、1792年6月20日[3]の事件のあと、彼女はその大部分を焼却するように強制された。王妃が保管していた書簡のうちいくつかはフランス国外に持ち出された。
私がすでに名前を挙げたような、著作によって我々の政治的な激動を明らかにすることができる人物たちの身分や立場を考慮すれば、人々は私が彼らと肩を並べることを望んでいるとは、思いもしないだろう。だが、私は人生の半分をルイ15世の娘たち、あるいはマリー・アントワネットのそばで過ごしてきたのだ。私はこれら姫君たちの性格について知り尽くした。私は、本にして売り出せば人々の興味を引くような、いくつかのおもしろい事実を見聞きした。これら真実の詳細を描くことは私の作品の強みとなるであろう。
ルイ15世の姫君たちの朗読係として宮廷に入ったとき、私はとても若かった。私はルイ16世とオーストリア皇女マリー・アントワネットの結婚より以前の宮廷を見てきた。外務省に配属されていた私の父は、その明晰さと有能な仕事ぶりで高く評価されていた。彼はたくさん旅行した。フランス人というのは、外国を旅すると、さらに強烈な祖国への愛を持って帰ってくるものだ。祖国への愛は、すべてのしかるべき地位にある人間の美徳のなかでも最高のものであるが、私の父以上にこの感情に満ちている者はいなかった。高い称号をもつ人々、アカデミー会員たち、フランスあるいは外国の学者たちが父と知り合いになることを望んでおり、父の親しい仲間に加わることを認めてもらいたがっていた。
革命の20年前にはすでに、次のようなことを私はよく耳にした。ヴェルサイユの宮殿内に、あの、ルイ14世による壮大な威光は残されていない。かつての君主制の体制は急速に衰退している。民衆は税に苦しめられ、物も言わず貧困化しながらも、フィロゾフたちの大胆な演説に耳を傾け始めている。フィロゾフたちは公然と、民衆の苦しみや彼らの権利を訴えている。だから、今世紀が終わるまでに、何らかの大きな衝撃の到来によってフランスが揺り動かされ、この国の運命を変える事態が、必ず起こるに違いない。
このように訴えていた人々のほとんどが、テュルゴー氏の行政制度の支持者であった。大ミラボー、ドクター・ケネー、ボドー司祭、トスカーナ大公レオポルトの代理大使であったニコリ司祭などである。ニコリ司祭は、彼の君主と同じくらい、革新者たちの原理を熱狂的に支持していた。
私の父は、これら経済主義者たち[4]の意思の純粋さに、誠実な敬意を払っていた。 彼らと同じように、父も政府の悪弊を認識していた。しかし、彼はこのような政治的派閥の信奉者たちのなかに、賢明な改革を指揮できるほど行政に明るい指導者がいるとは考えていなかった。父は彼らに率直に述べた。政府という大きな仕組みを動かす技術においては、彼らのうちのもっとも賢明な者でも、ひとりのまともな地方長官補佐に及ばない。万が一、政治的な事案の指揮権を彼らのうち誰かが握ることになれば、計画の実施段階で、彼らはたちどころに壁にぶつかるだろう。もっとも賢明な理論と、行政上のもっとも単純な実践とは、大きな隔たりが存在するからだ。
このような会話のうちのひとつが、当時とても若かった、私の注意を引いた。私の父は、フランスの君主制を古代の一体の美しい彫像にたとえてこのように言った。その彫像を支える台座は、崩れかかっており、彫像の形は、徐々にそれを覆ってきた寄生植物で隠れて見えないということは認める。しかし、― 彼は悲痛な感情を表して、こう言った。その彫像を揺り動かさずに台座を建て直すことができるほど腕のよい建築家は誰か。そんな職人は見つからないだろう。改革の試みは、破滅を早めるだけだった。情念の嵐は、爆発へと至った。彫像はまるごと崩れ落ち、これによりヨーロッパに激震が走ったのだ。
[1] 聞いた話では、リシュリュー元帥が王妃の図書室司書のカンパン氏に、彼の死後、彼のものとされる回想録が出てくるに違いないが、それらを購入してはいけないと言った。元帥は前もってそれら回想録が作り話だと言明していた。彼は正しいつづりで書くことができなかったし、物を書く趣味などまったくなかったそうだ。元帥の死後間もなく、「Soulavie」と名乗る男が「リシュリュー元帥の回想録」を発表した。(カンパン夫人による注)。
[2] とはいえ、この仮定が一部でも実現しないというわけではない。ここでカンパン夫人が名をあげている人物のなかには、興味深い回想録を書いた者もいる(編者注)。
[3] おそらく1792年ではなく、1791年6月20日のヴァレンヌ逃亡事件のこと(訳者注)。
[4] 原文の « économistes » は重商主義者たちを表す。ケネーらによる重商主義に、« physiocratie (重商主義) » という語が使われる前は、このように呼ばれていた(訳者注)。