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プロテウス③ CREDO QUIA ABSURDUM 2

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 首都ヴィネダを横断する大河、チャルノ川。その広大な川幅の上では無数の船舶が往来し、両岸では大小さまざまな埠頭やドックが口を開けている。慌ただしく陸上と船上を行き来する沖仲仕たち、豪奢な外装の蒸気船とそこからゆったり降りてくる婦人たち、赤レンガの倉庫街、旧文明の技術を取り入れた商社の社屋──歴史の積み重ねの象徴たる建築とそこに息づく幾千もの人生が、左から現れては右へ霞んでいく……。
 川を遡り波を切る定期船のデッキから、メリーはその景色を眺めていた。何も考えていないわけではない。しかし、ミニチュアじみた街並みに現実感は無く、またそれを見る俯瞰的な視界さえも自分のものでないような気がする──。そんなぼやけた白昼夢だけが、頭に浮かんでは消えていった。
 真横から甲高い汽笛が響き肩が小さく跳ねる。いつの間にか、目的地が近づいていたらしい。

「また寝ていたのですか?」

 あれだけ寝坊したのに、とでも言いたげなアレクサンドラの声に、メリーは必死で弁明する。

「ち、違いますって。ちょっとぼうっとしてただけで……!」

 傍らに置いていた、自身の身の丈すら超えるトランクケースを担ぐと、渡り板のそばで待つアレクサンドラの元へ急いだ。
 第七東港湾区は、近代初期の河川工事と埋め立てによって陸地が拡張される以前から存在する古い街区である。港湾都市ヴィネダらしい、交易先の文化が綯い交ぜになった市街には色鮮やかな切妻屋根が整然と立ち並び、乱立する赤煉瓦の尖塔と豪奢な時計盤を備えた高楼は、宝石指輪を並べた商人たちの指にも似ていた。
 だが、船から降りた二人の修道女を待っていたのは、無機質なフェンスで囲われた狭い通路だった。壁の向こうでは、重機が練り歩く轟音と男たちの荒々しい怒号が行き交っている。

「これが噂に聞く港湾拡張事業ですか」

 メリーは周囲に満ちる轟音に負けじと声を張り上げた。
 ボレアス海へ注ぐチャルノ川の河口部は、同沿岸地域最大の港である。そして、四〇年代の“文明恐慌”によって停滞した経済状況を打破するため、ルギニア政府と首都ヴィネダ一帯の経済団体が発案したのが、今会計年度から始まった港湾拡張事業だった。ロスティスラヴ橋以東のチャルノ川左岸、つまりは「陸のヴィネダ」の、古い小規模な港湾をスクラップ・アンド・ビルドして近代化させることが計画の第一段階であった。

「街のほうは残るとはいえ、川船からの景色が変わるのはちょっと寂しいですね」

 メリーの声を受けてアレクサンドラは振り返りつつ、壁に覆われたその向こうを思い浮かべる。

「今の形になったのもスタニスラヴ王の時代ですから──三百年前ですか。その前は確か漁村だったはず。……伝統だと思っているものも案外新しいものです。お前も、新しい景色にそのうちに慣れますよ」

「三百年ってぜんぜん新しくなくないですか? ──って、待ってくださいよー!」

 しばらく歩くと囲いによる目隠しは消え、一転して古い市街が現れた。土を掘り返し石を穿つ音が後ろへ遠ざかるにつれ、メリーは息苦しさも薄れていく気がした。
 水道局から取り寄せた地図を手に、アレクサンドラは石畳の上を迷いなく進んでいった。その後ろを、商店の陳列窓に心惹かれそうになりながらもメリーがついていく。入り組んだ街路を十五分ほど歩き集合住宅同士の狭い路地に入った先、中庭を設けようとして失敗したかのような少し広い袋小路に、問題の場所への入り口が佇んでいた。

「この建物ですね」

 地図から目線を上げ、アレクサンドラが言う。
 視線の先には、ロマネスク様式を模した堅牢な石造りの小屋が建っていた。その前には、水道局保有のものである断りと、立ち入りを禁じる旨を書いた看板が立っている。
 その両開きの扉にアレクサンドラは手をかけた。重い軋みを上げながら魔所の口が開く。まだフロレクたちが踏み入れてから一週間も経過していないというのに、まるで悠久の時を経た遺跡が暴かれたかのような雰囲気に満ちていた。その真っ暗な向こう側を懐中電灯で照らそうとしてメリーが歩み寄ると、ひんやりとした空気が彼女の鼻から頬へ抜けていった。

「うわぁ……いかにも、って雰囲気……」

 懐中電灯の無機質な光が、小屋の床から天井までを移動していく。壁には水道局員が残していった作業服に清掃用具、事務小物が入っているであろう古びた棚、四隅には小動物と見違うほどに溜まった埃。そして床には──地下へ続く石の階段があった。摩耗した石段はうっすらと湿り気を帯び、懐中電灯の光を反射している。その生物的な開口部が、まるで虫を飲み込む食虫植物のようですらあった。

「この時点でめっちゃ剣呑なんですけど……」

「地下に潜ったら、不用意に横穴は覗かないほうがいいですよ。そのまま食べられてしまうかもしれません」

 メリーは小屋の入り口から少し距離をとる。

「……冗談じゃないですよ」

 非難を込めた目線も意に介さず、アレクサンドラは準備を始める。彼女もまた、メリーの物ほどではないが大型のトランクを運んできており、それを開いて中身をかき分けながら説明した。

「とりあえず、今回の目的はフロレク氏の記録に沿って探索し、その内容を検証することです。魔術で確認はしていますが、確実とは言えませんからね。“怪物”が居るのか、居ないのか。それが分かれば十分です。──まあ、お前にやる気があるのなら、目標を見つけて倒してしまっても構いませんが」

 ブンブンと頭を振るメリーへ、アレクサンドラは鞄の中から取り出した器具を手渡した。

「無線機です。使い方は分かりますね?」

 鈍色の金属製の箱のような無骨な様相はいかにも軍用のそれで、持ち運び用のバンドこそついているものの、少女の手にはいささか大き過ぎる代物だった。メリーは底にこびりつくようにして貼られたラベルを確認する。

「二〇三八年代製──前特異点プレ・シンギュラリティ時代の機械なんてよく手に入れましたね……」メリーはスイッチを押しながら訊く。「でも動くんですか? コレ」

 アレクサンドラの持つもう一台が、わずかに遅れて少女の声を復唱した。どうやら今のところ、動作に問題はないらしい。アレクサンドラもスイッチを押しながら応える。

「大出力、対衝、防水。修道院ウチの倉庫にあったものの中で、最も高性能な無線です。それに聖パトリキウス=聖イシドールスの二重祈祷を施し、天使ガブリエルのタリスマンを封入しました。怪物に食べられでもしない限り、しっかりと働いてくれますよ」

「えぇ……。いくらお金かけたんですかコレに……」

 メリーは呆れたような目で手のひらにある機械を見つめた。

「それと──」

 言いながら、アレクサンドラはトランクからもう一台、今度は据え置きにするものらしい大型の機械を取り出した。

「下に降りたら、階段の近くにこちらの中継機を置いておきなさい。これで、地上と地下でやりとりできるはずです」

 メリーは返事をする代わりに機器を確認しようとして、ふと気がつく。

「ん? 待ってください、じゃあ院長はついてこないってことですか?」

「そうですよ?」

 むしろ今まで気づかなかったのか、とでも言うように、アレクサンドラはあっけらかんと答えた。

「なんで!?」

「なんでって、そうでなければお前の成長に繋がらないではありませんか。本来ならここまでついてくるつもりもありませんでしたからね。それに、出張費を食費に浪費した挙げ句、長期間無断外泊していた罰です」

 メリーが怪鳥のような奇声を上げた。

「なんでバレてるんですか!? っていうか、罰だの、わたしの成長だの……! こんなタイミングでやらなくてもいいじゃないですか!?」

「キリスト者であれば、どのような状況であれ弛まず耐え忍ぶべきですよ。ガラテア書によれば──」

「分かりましたからお説教はいいですぅー!」メリーは鉄鎚・エウラリアをトランクから取り出すと逃げるように地下への階段を駆け下り──その姿と入れ替わりに叫び声が飛び出してきた。「院長の鬼! 暴君! ババ・ヤガ!」

「お前……コレが通信つながっているのを忘れてませんか……?」

 地下からの叫びと、アレクサンドラの無線機からの絶叫が重なった。


 電気がフィラメントを焼き、その炎色が、前後にずっと奥まで続く半円型の空間を照らし出す。しかし、その力はあまりに弱々しい。視界の隅には闇がうずくまり、壁の凹凸や分岐路の死角に陰が潜む様子は、黄昏時に似ていた。
 懐中電灯は点けたままのほうがいいな──メリーは中継機を地面に下ろすと、口に咥えていた懐中電灯を左手に持ち直した。

「下に到着しましたか。通信には問題ないようですね」

 ショルダーホルスターにくくりつけた無線機が再生するアレクサンドラの声は鮮明だった。

「それはいいんですけど……」メリーは顔を顰め、鼻声でアレクサンドラへ訴えた。「やっぱり臭いぃ!」

「それはそうでしょう」

 地下水路には腐臭で満たされていた。汚泥やアンモニアの臭いだけではない。鼻孔を針で突き刺すようなカビの臭い、果実の腐ったような甘ったるい臭い、水生生物を想起させる臭い……それらすべてが渾然となりつつも互いに主張し、もはや人間の脳の許容量を超えた暴力となっていた。

「それに……“怪物”の話を聞いたせいだと思うんですけど……」薄暗い周囲を見回し、奥にある分岐路や暗い隅に目を凝らす「ずっと誰かに監視されているような……大勢の人から注目を浴びているような感じがして落ち着かないんですよ」

 地下からの訴えに、アレクサンドラは少し感心したように返す。

「なるほど……お前がそこまで警戒しているのは珍しいですね。地下という環境は魔術的にも特殊な場所です。そうした肌で感じる空気感や違和感も軽視できません。研ぎ澄ませることで五感で捉える以上の情報が──」

「分かってますぅー、わたしがそういうの得意じゃないことは……って、うおっ!?」

 文句を垂れ始めたメリーを諫めるように、通信に甲高い動物の鳴き声が混ざった。

「どうしましか?」

「──あ、足元に今、すごいデカい鼠が……!! ……ああ、もう! 早く終わらせて! さっさと帰って! シャワー浴びる!」

 誰に宣言するのか、メリーは地下水路内に響く声で唱えながら、フロレクの手記が示したポイントまで小走りで進み始めた。
 フロレクの手記にあった通り、地下水路は正に「蟻の巣」のようであった。「メインストリート」は緩やかにカーブを描きつつ全長二キロに渡って南北につづいているという。だがそこからの分岐はいずれも、まるで思いつきでつくったかのように脈絡なく開いており、またそれぞれの大きさ、様式、造られた時代もバラバラ。──ある種の好事家であれば、建築様式を展示する画廊ギャラリーのように楽しめるのだろうか、とメリーは横道に懐中電灯の光を投げかけながら思う。
 そんななか、ふと疑問が湧き出た。

「あれ? そういえば……事故で川の水が入り込んだんですよね? きれい──ではないけど、その割にはゴミとか少ない、気がします」

 疑問に答えるアレクサンドラの声は、距離ができて少しノイズ混じりになっていた。

「ああ、事故を起こしたエルラフが調査を行ったようですからね。その際に処理もしたのでしょう。フロレク氏の手記にも書かれていましたが、あの会社にしては珍しく、きちんと調査に時間をとったようです」

「まあ、人が亡くなってますからねぇ……」

 港湾拡張工事が進められている中、事前調査を怠り地下水路に穴を開けたのは、雪の降りしきる一月の朝のことだった。川水が地下へ引き込まれたことで数百世帯の下水道が逆流、さらに大動脈であるチャルノ川に巨大な渦が発生するなど多数の損害が発生し、新年早々から大惨事となった。
 幸いにして工事関係者、周辺住民ともに死者は出なかったが、水を再び川へ戻すために開放されたドックへの給水口から、三人分の遺体が流れ出てきたことが大きな問題となった。司法解剖の結果、彼らの死因は溺死と判別されたが、厄介なのはいくら調べても身元が分からなかったことである。事故前後に近隣で行方不明になった人はおらず、さらに、白く膨れ上がった彼らは身元どころか、人種さえも判別不可能だったという。
 結局、地下へ住み着いていた浮浪者や不法移民ではないか、ということになり、問題の中心は政府と委託企業への非難へ推移していった。

「……それはそうと、おかしくないですか?」

 メリーの問いかけに、アレクサンドラは無言でその先を促す。

「何ヶ月も調査していたんですよね? だったら、今探している“怪物”だって、もっと早く見つけていてもおかしくない気がするんですけど……」

「ええ、それについては私も考えました。しかし、エルラフから警察ほか行政への報告は上がっていないようなのです。フロレク氏の手記を発見してから日が経っていないので、まだ深く探ることはできていないのですが」

 メリーは、手元の図面と目の前の風景を見比べながら歩みを進める。

「うーん、じゃあ……その時、怪物は居なかったとか? つい最近、どこかからやってきてこの場所に居ついたのか、あるいは何かの魔術とかで産み出されたのか……」

「そうですね。ただ、ヴィネダ周辺を見る限り、類似の被害や目撃情報は確認できないのです。フロレク氏の言う通り『巨大な生物』だとしたら、この地下で何を食べて命を繋いでいるのかも疑問です」

 つまり、メリーの言う後者──最近何らかの原因によって産み出された存在であるという可能性も十分にあるということを示唆した。しかしそれでも、その原因が何であるのか、そしてこの“怪物”自体が何であるのかの答えはまだ見えない。
 メリーは、これから自分が対峙するであろう存在に頭をひねりながら「メインストリート」から分岐する細道に足を踏み入れようとしていた。分岐路には人が通るための道がなく、また心細いながらも確かに道を照らしていた照明も設置されていなかった。メリーは今一度眉にシワを刻んだが、決心するとブーツのくるぶしまでを水に浸した。「メインストリート」に注ぐ形になるこの水路はやや登るように傾斜がついているらしく、歩みを阻害するように濁った水が彼女の足を押していた。

「調査って、結構大人数でやっていたんですかね? だとしたら、“怪物”も警戒して出てこなかった、ってことも考えられませんか?」

「そうですね。あるいは──」アレクサンドラは、少し声を低くして続けた「エルラフが情報を隠匿している可能性もあります」

「! それって、じゃあ……!」

 彼女たちの話を聞く者は、地下の闇とそこに潜む鼠以外にいない。しかしそれでも、アレクサンドラはメリーの言葉をそこで止めた。

「憶測に過ぎません。仮にそうだとしても、彼らがどこまで怪物に関与しているのかも不明です。単に、工期を遅らせたくなかっただけかもしれない──」

 怪物の正体にはたどり着けなかったが、メリーは問題の部屋の前に到着しようとしていた。前方に投げかけていた懐中電灯の光が、壁にできた不自然な闇へ吸い込まれる。足元では、水が本来の道筋から外れて部屋の中へ流れ落ちていた。

「……到着しました」

 外から丹念に部屋の中を見回す。メリーの持っていた懐中電灯は、水道局員たちの持っていたランタンに比べて遥かに性能が良い。その場所からでも、部屋の構造が見て取れた。

「奥に広いですね……」左右の壁に目を移す。「今まで通ってきた水路よりも、ずっと古いものみたいです。フロレクさんの手記に書いてありましたけど、古代ローマの時代からあるっていうのも案外本当なのかも……」

 一歩、部屋の中へ踏み入れる。湿った靴音が不気味に響く。
 メリーは警戒しつつも壁や床を検分し、事細かに無線機の先に居る院長へ報告した。どれほど有益な情報であるのかは分からないが、メリーが話す通り部屋は随分と古いものらしい。だが、アレクサンドラはそれよりも、メリーの声色が徐々に沈んでいくことが気にかかった。

「──で、部屋の入り口から五メートルぐらいの所に……確かに、大きな穴があります」淵に足を揃えしゃがむと、その淵を懐中電灯で照らした。「わたしでも分かりますけど……コレ、明らかに人工物ですね。ぐるっと周りを石で囲んでいます。本当に井戸みたいな感じ」

 穴に向かってできるだけ真っ直ぐ光を当てる。しかし、底が見える気配は一切ない。

「少なくとも、五十メートルはありますね……」

 メリーは、その先の言葉に詰まった。音声だけで表情は見えなかったが、アレクサンドラは彼女の言わんとすることが理解できた。

「なるほど、分かりました。……さすがに、その穴に単身飛び込むのは我々と言えど危険が過ぎます。一旦戻りなさい。少なくとも、フロレク氏の描写が間違いないことは確かです。あまり気は進みませんが、特例解除の許可を取って数で調査を進めましょう」

 アレクサンドラの言葉に、メリーはひとまず長い溜息をついた。しかし、またすぐに眉をキツく顰める。

「了解です。…………ただ、その。この大穴だけじゃなくて、“怪物”か、あるいは何者かによる惨事が起きたことも確かです」

 メリーの声は、穴を報告する時よりも一段と低い。

「何か見つけたのですか?」

「はい。フロレクさんたちは、大穴に気を取られて見逃していたのかもしれないけど……」

 自分の言葉を待つアレクサンドラへ、メリーはどのように話すべきか頭を抱えた。穴の向こう、部屋の最奥に転がるそれらがであるのかおおかた検討はつくが、じっくりと見定めたくはなかったからだ。

「なんというか……たぶん、食べ残しとか、そういうの……だと思います」

 メリーの拙い言い方で、アレクサンドラは十分に察した。そして同時に、部屋に入った時点から急速に彼女の様子が暗くなっていったことにも合点がいった。
 下水の悪臭に混じるただならぬ腐臭に、メリーは部屋に入ったときから気がついていたのだ。
 そこにあったのは、何人もの屍だった。無造作に噛みつかれ手足が無くなっているものもあれば、腹が引き裂かれ腸が這い出るもの、骨がむき出しになったもの、あるいは、一度吐き戻したのか皮の削ぎ落とされたものもあった。着衣の無いものもあったが、まだ新しい水道局員らしい作業服に身を包むものもあった。すべてが腐り果て、鼠と蛆の糞にまみれていた。
 それは、この世にあってはならぬ冒涜であった。そしてメリーは、これが人間の末路であるなどと思いたくなかった。
 報告を終えると同時に口を抑えながら部屋の外へ出ると、メリーは改めて無線機に話しかけた。

「やっぱり、おかしいです。遺体は……一見しただけでも二十人分はありました。エルラフ・グループから被害の報告は出てないんですよね? …………事故の件だってそうです。どうしてこの地下水路から、何者か分からない遺体が出てくるんですか? 彼らは──いったい何者なんですか?」

 精神の均衡を欠き始めた彼女へ、アレクサンドラは手短な指示だけ伝えた。

「メリー……今回は十分です。こちらでもエルラフにもう一度当たってみます。お前は、早く戻ってきなさい」

「…………分かりました」

 メリーは部屋を──その闇の奥にある死者たちを一瞥し、「メインストリート」への小径を引き返した。足元を流れる水は、死者の腕が絡みつくかのようだった。

「調査を始める前に、遺体の回収をしておきましょう。……一応、身元を調べれば、何か分かるかも知れませんし」

「あ、わたしも……参加します。まだ怪物はそのままですし、一応護衛ってことで……。院長は先に連絡を済ませてきてください。わたしも今『メインストリート』に戻ったところなので、あともう少しで地上に──」

 その時、一つの細い通路から、何者かが息を呑む声が聞こえた。無線機からの通信に向いていた意識が、強引にその方向へ引き寄せられる。──声のした方向、分岐した細い通路の奥で懐中電灯の光に照らされたその姿は、院長室で見たの資料に添付されていた写真の通りだった。

「メリー、今のは?」

 アレクサンドラの問いかけに、メリーは応えることができなかった。驚いていたし、また、彼にどう声をかけるべきか逡巡していたからだ。
 彼の全身から発散される怯えと困惑の空気を刺激しないように、メリーは恐る恐る尋ねた。

「ベネディクト……フロレクさん……?」


次の話 →


【CREDO QUIA ABSURDUM】


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