プロテウス⑨(終) CREDO QUIA ABSURDUM 2
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「臭い取れた!?!?」
全身の泡を流してメリーはオルレアに訊いた。
「分かんないです……」
修道院へ帰ったメリーは何よりもまず浴室へ飛び込んだ。地下水路に入っただけでなく、そこで汚水に塗れながら一戦交え、さらに数時間血まみれになりながら探索したのだ。うら若き少女にとって、自身から凄まじい臭いが発散されていることは耐え難いことだった。
「一応もう一回洗っておこうか……。ユーリも……」メリーは石鹸を泡立てて鉄鎚を擦りはじめる。「何度洗っても砂が出てくるんだよねぇ」
「まあ、骸骨みたいな形してますからね……」
自分にも泡を広げながらメリーが呟く。
「いやぁ、何千年も前からそうだったとはいえ、地下水路で暮らすとかすごいよねぇ。あの神殿の近くはけっこう住みやすそうではあったけど。っていうか、何食べてるんだろ?」
「結局、キンメリア人の方々のことは秘密になるんでしたっけ?」
オルレアの問いに、メリーは院長との会話を思い出す。
「うん。能力的にも体質的にも、表に出ると危険だから、って。それに、むこうもこれまで通りの生活が良いみたい。まあ、あまりこっちから色々押しつけるのもアレだし」
ついでに、世間的には「二回目の事故」となった今回の作戦のせいで、同地区における工事は無期限で停止となった。古のものでも最新のものでもない、無機質な更地が今後しばらく残ってしまうのは、メリーも少し後味が悪かった。しかし、また誤って水路に穴を開けてしまうことはないだろう。
そこでふと、メリーは思い出す。
「でもね、フロレクさんはこれから水路調査の度に顔出したりするんだって。助けてもらった恩もあるし、それに、テレイシアさんへの罪滅ぼしもしたいとか。……亡くなった男の人のこと、フロレクさんが気に病む必要はないとは思うけどね」
「そうですね……。……メリー、なんでニヤニヤしてるんですか?」
「うぇっへっへ。いや、独り身の男と寡婦ですよ? ちょっと良い感じになったりし──あばばばば」
オルレアはメリーの頭上からシャワーをぶっかけた。
「下世話な話は良くないですよ」
「はい……」
テレイシア達がどうなるかは分からないが、少なくとも地下の住民たちの平穏が続くことを、メリーは祈った。
†
深夜、地下水路へ続く入り口を開ける者達が居た。影は八つ。いずれも近代的な防弾服の上に、対魔術用に術式を施した黒い外套を羽織っている。フルフェイスのヘルメットを被りその顔は伺えない。だが、手元に携えるのは機関銃、背負っているのは疑似聖骸布に覆われた呪具。明らかに堅気の人間ではない。
全員がそれぞれの影であるかのように、一糸乱れぬ動作で地下へ駆け下りた。物音すら立てず、迅速に。それはきっと、これから彼らが行おうとしている任務も同様なのだろう。しかし──。
「こんばんは。そろそろ来る頃だと思いました」
地下で突然かけられた女の声。先行する二人が、迷わず発砲した。
秒間一二発の弾丸が、古びた石の床を穿った。数百年の時を数えていた石材は儚くも土煙に変わる。
「一切の躊躇が無いとは、優秀ですね」
女の姿は健在だった。
再びを引き金を引こうとする二人を、リーダーらしき男が手で制止した。
土煙の晴れ間から覗いた顔、それは、降下教会の長の一人であるアレクサンドラのものだった。手には、一振りの細い十字剣。腰にその鞘を佩いている以外、武装は無い。
「…………」
「キンメリア人──地下に住む者達の所へ向かうつもりなのでしょう?」アレクサンドラは、剣を鞘に収めながら訊いた。「彼らの抹殺が、今度の仕事ですか?」
答えは無い。ただ、銃口は常に殺意を剥き出しにしている。
「答え合わせをしてもらいましょう。エルラフに潜伏させておいた者が掴んだ情報です。──一月の水難事故では死傷者は出ていませんが、その直前に、工事中だったドックで作業員が五人亡くなる事故が起きていますね。内容は、工事中の地面の崩落……。怪物を見つけたのは、その時だったのでしょう?」
地下の暗闇に、アレクサンドラの声が吸い込まれていく。
「その時に、地下の住民達についても知った。地下に人が住んでいるとなれば、工事も滞るかもしれませんね。もしかしたら、中止の可能性も……。だから水難事故を起こした。地下の住民たちを全滅、そして隠滅させるために」
やはり沈黙。フルフェイスの奥の顔は、そもそも話を聞いているのかすら分からない。
「意図的にやったことなので、事故と言うのは正確ではありませんか。しかし、遺体が地上に流れ出てしまったのは、ある意味で事故でしたね。そもそも、こんな杜撰な手段をすべきではありませんでしたが──。お前達の正体についての見当はついています。今はエルラフに雇われているのでしょう? 最初からお前達が出てくれば、我々にも知られずに処理できたのではありませんか?」
後方の一人が、背負っていた呪具を手に取った。拘束となっていた疑似聖骸布が解ける。中から現れたのは、錆びついた鉄剣。名も無い聖職者の首を刎ねた剣である。それは聖遺物であると同時に、聖人殺しの呪いを帯びた刃でもあった。
両隣の二人が、低い声で何かを唱え始めた。聖人に加護を得る祈りである。これほど物騒な集団にも関わらず、祈りを捧げているのだ。
「聖人への祈りですか。私もズヴォネク式回線などをさんざん便利に使っておいてなんですが……あまり好みではないのですよね。何かを対価に恵みを得ようなど、異教的だとは思いませんか?」
呪具を取り出した一人が、剣をリーダー格へ手渡した。後ろで唱えるのは聖セバスティアヌスの名。矢避けの加護である。しかしそれは、相手に対してではない。フレンドリーファイヤを防ぐためのものである。
アレクサンドラは、機関銃の弾幕と魔剣の剣戟を同時に相手取る必要があるのだ。
「しかし、それは神と人との間の話。人同士であれば交渉は大切です。お前たちはこれ以上、地下に干渉しない。我々も、エルラフに深入りはしません。いかがですか?」
魔剣を持った者が、修道女を見据えた。
──降下教会のアレクサンドラ。長く院長の座にありながら、降下教会の修道女上位数人が持つという固有能力については不明。ただ、その卓越した剣技だけでも十二分に難敵であるとされている。
しかし……こちらは八人。しかも、彼女達にとって致命的な有利を取れる「聖人殺し」が手中にある。首を穫ることができれば、その政治的、信仰的メリットは極めて大きい。怨敵たる降下教会の瓦解すらありえる。
リーダー格の決意とともに、八人の殺気が膨らんだ。
「そうですか。残念ですね」
銃声が号令となって、魔剣が煌めいた。
瞬間、
「────!?」
八人の視界が、同時に暗転した。照明が切れた? 違う。
哀れな信徒たちは、首が地に堕ちて初めて自らの絶命を自覚した。