プロテウス⑦ CREDO QUIA ABSURDUM 2
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メリーは大穴から続く通路を歩いていた。通路は徐々に横幅が狭まっており、遺体と巨大な鉄鎚を抱える彼女は通るのに少し苦心した。壁はモルタルを固めたかのように不均等な凹凸とザラつきが目立っている。どうやら、元の形を意図的に狭めたものらしい。この狭さなら、あの怪物は通れないな──メリーはふと、そんなことを思った。
しばらくすると、道の先から僅かに暖かな空気が吹き抜けるのを感じた。
通路の終わりが近い──そう感じた瞬間、前方が開けた。
「これは……!」
目の前に現れた風景が「街」であると、メリーは直感した。
そこにあったのは、「メインストリート」と同等以上の広い通路だった。奥に続いていくその景観には松明が並び、炎色が闇を塗りつぶしている。網目状に模様が浮かぶ赤灰色の壁は煉瓦とコンクリートの混成で、その極めて古めかしい様相は古代ローマの建築物を想起させた。
そして、通路に並んでいたのは、色とりどりの粗布が張られたテントだった。所狭しと軒を連ねるテント、そしてその前に放り出された家財道具らしき木箱が並ぶ様子は、異国の市場に似ている。
地下水路に入り、さらにそこから大穴を落ちた先である。目の前に広がる異様な光景に少し気圧されながらも、メリーは導かれるかのように松明を辿り奥へ進み始めた。
人が居る様子は無い。ただひたすら、火花の弾ける音だけが煉瓦の通路内を反響している。テントは天井から染み出す水滴を避けるためのものであるらしかったが、その多くに虫に食われ、穴が空き、埃が積もっている。しかし、中には比較的小綺麗なものも見受けられた。──廃墟ではない。人の息遣いの残滓は、安心感をもたらすようにも、底しれぬ恐ろしさを感じさせるようにも思えた。
歩みを進める中でいくつかの細い横道を通り過ぎたが、そのうちの一つにメリーは目を留めた。
他の通路より広い、上へ登る階段である。階段の上方から漏れる炎の光は、今いる通路よりも明るい。そして──物音は無いものの、大勢の人間が集まっているかのような気配を感じた。
「何……?」
胸騒ぎを覚えながら、メリーは階段に足をかけた。
階段は短かった。間もなく、段差の陰に隠れていた上階が目に入る。そしてその光景に、メリーはまたしても息を飲んだ。
遥か地下とは思えぬ大空間だった。高い天蓋を支えるかのようにそびえ立つのは、大理石の白い柱。そして階段から真っ直ぐ奥へ向かって、何本もの燭台が並び道をつくっている。その光の道に誘われ奥へ目を向けると──そこには、巨大な台座があった。
祭壇である。
キリスト者であるメリーだが、場の神妙な空気を見てすぐに悟った。
すると──ここは神殿か。改めて見れば、この列柱の様子などは、かの有名なマルス広場のパンテオンや、アテナイのパルテノン神殿に雰囲気が似てなくもない。
「…………!」
息が詰まった。メリーにとって異教とは言え──いやむしろ異教だからこそ、この神域に満ちる重圧が彼女の身にのしかかっていた。
そして、階段を上る前に感じた人の気配。見たところ無人であるにも関わらず、空気を泡立たせるようなざわつきが継続している。場の雰囲気だけではない。隣を通る足音が、耳にかかる息が、弱い電流のようなこそばゆい視線の針が、少女の身体に届いていた。
動くことができない。いや、息すらままならない。
このまま朽ち果てるか、あるいは鉄鎚で破壊の限りを尽くすか──そうでなければ状況を打破できない。そう叫ぶ自分の声が、頭蓋の中で反響したいた。
緊張が限界まで達しようとしていた、その時だった。
「止めておけ」
階下から声がした。
驚いてメリーが振り返ると、そこには女性が立っていた。ヒマティオンに似た、長大な一枚布を纏っている。時代錯誤なその出で立ち以上に、その肌や髪の白さが、彼女を何者であるのかを物語っていた。
「お前のような者はそこに踏み入るべきではない。特に、その鉄鎚を携えているのであれば。……緊張が解けたなら、こちらへ降りてきてくれ」
メリーは数度深呼吸をしてから、女性の言葉に従った。
最後の一段から降りて女性の隣へ立つと、メリーは近くから改めて彼女を見た。背は、メリーよりも少し低い。見慣れない地方の人間と相対した時のように、年頃については推測しづらかったが、声の印象通り若いのだろう。遺体の男性と瓜二つであるかのようにすら思えた。
「お前がここまで来ることは聞いていた。しかし、“神殿”に踏み入れるとはな……」
この場所に辿り着いてから頭の中には疑問しかなかったが、メリーはまず、彼女の奇妙な口ぶりが引っかかった。
「聞いていた……? 一体、誰に?」
女性はこともなげに答える。
「周りにいる魂たちだ」
疑問符が増えるだけの修道女を尻目に、女性は続けた。
「説明は後だ。まずは──その男を、こちらに」
手を差し伸べながら遺体を指していた。遺体と関わりのある人物には間違いない。しかし……言われるまま渡して構わないのだろうかと、メリーは逡巡する。僅かに無言の時間が生まれ、痺れを切らしたように女性は言葉を足した。
「…………その男は、私の夫なんだ」
メリーは喉の奥に痛みを感じた。なんと声をかければ良いのか分からなくなった。ただ黙って、遺体を女性の腕に預ける。目を伏せて、血に塗れた男の上半身だけを見つめた。目の前にある女性の顔を、直視することができなかったからだ。
「あの……」
切り出してはみたものの、先が続かない。何のために口を開いたのか分からなかった。男性の最期の姿を説明しようとしたが、それが自分にとっての言い訳のような気がして、再び口を噤んだ。
「こうなることは、分かっていた。お前が居なければ、亡骸を取り返すこともできなかっただろう」
メリーが視線を上げると、痛ましさすら感じるほどに優しげな貌が目に入った。
「──ありがとう」
「…………」
やはり、言葉を次ぐことはできなかった。
「地上まで案内する。ついてこい」
通路の奥へ歩き始めた女性に、メリーは慌てて追いすがる。
「ま、待って……! わたしは、地下水路にいる怪物について調べに来たんです! その男性は最期に、怪物を討伐してほしいとわたしに言いました。きっと、貴女達も怪物に苦しめられているはず……!」
「残念だが」女性は振り向きもしない。「お前が私達にできることはもう、ほとんど残っていない。……私がお前にできることもな」
道すがら小綺麗なテントに遺体を収めると、女性は再び通路の奥へ向かった。
「出口まで長い。歩きながら話そう」
──通路は、最初に踏み込んだ時にメリーが感じた印象以上に入り組んでいた。どれもが極めて古い水路であるらしく、地下の彼らが水を堰き止めて利用したお陰で、水や風に侵されることなく保存されているようだった。神殿も古い貯水池であり、あの大穴も排水用に造られたものであるらしい。とは言え、それらを地下で改築している彼ら自身の技術力も目を見張るものがあった。
「街の地下にこんな場所があるなんて……」
それは問いというよりも、感嘆として自然と口から出た言葉だった。
「先ほどまで居た場所は、神殿の門前町のようなものだ。本来私たちは、この地下にある広い遺構に分散して住んでいる。神殿は、例外的に同族と顔をあわせる場だった」
地下に住む人々──メリーが抱いていた予想は的中した。さらにそこから、核心へ迫る。
「貴女達は一体……? なぜ、地下に住んでいるんですか?」
女性は、僅かに自嘲するような声色で答えた。
「隠れ住んでいるんだ。私たちは──プロテウスの子孫だから」
「プロテウス?」
古典文学の勉強をサボりがちであるメリーも、その名前には聞き覚えがあった。プロテウスは、ギリシャ神話の神の一人である。半人半獣の姿でも描かれ、予言と変身の能力を持つという。
「地上の人々はもう、忘れてしまったのだな。……だが、それもやむを得まい。私達が最後に王へ仕えたのは、二〇〇〇年以上も昔だと聞いている」
プロテウスの子孫を自称する女性は、壁から松明を一つ取ると、亀裂のような狭い通路へ身体を捩じ込んだ。メリーもその後に続く。
「私達の一族は太古より、死者と語り合い、そこから未来を導き出すのを生業としていた」
「死者の言葉から未来を?」
「過去の人間には、今の人間には知り得ぬ未来を見通す賢人が居る。それに、物質世界を解き放たれた彼らの目は鋭い。例えば今は──上に気をつけたほうが良い」
「え──? 痛っ!?」
天井を見たメリーの顔に、小さな石の欠片が直撃した。先導する女性は振り返るどころか見上げることもなく、ずっと淡々と通路の先岳を見て進んでいる。
「天井から石が降ってくると、何人かの霊が教えてくれた」
「イタタ……帰納法型の未来視の一種か……。もっと早く教えて欲しいんだけど……」
予知に分類される魔術には、いくつかの種類がある。中でも最も単純なものは、驚異的な洞察力と演算能力によって周囲の状況を観察し近い未来を想定するものだ。
プロテウスの子孫も“霊”を媒介に周囲の状況を把握し、未来を予想しているのだろう。
「軽い災難で良かったな。……しかし、人は時折、どうしようもない未来に突き当たることもある。運命を知るというのは、先に待つ困難や絶望も知るということだ。──先ほど、『なぜ地下に?』と訊いたな。運命を呑み込めなかった為政者も居たのは、想像に難くないだろう?」
メリーは思い出した。プロテウスは予言の力を持ちながらもそれを使うことを好まず、動物に姿を変えて英雄たちから逃げ回る説話が伝えられている。だが女性の口ぶりは比喩や寓話を語るものではなく、重い実感が滲んでいた。
「だからって、何代にも渡って何千年も地下に……?」
メリーの声に憤りを感じだのだろう。女性は苦笑を交えながら答えた。
「勘違いしないでほしいが、我々にとって土の下こそが故郷だと、皆が思っている。それに、地上と違って私達はどこまでも道を繋げることができる。かつては地中海まで広がる国があったという。……今では、私達の一族の数もずいぶんと減ってしまっていたが」
「予言」の話を聞きながら、メリーは怪物との戦闘を思い出していた。まるで、こちらの攻撃を正確に予想するような動き……。そして、この真っ白な姿。関係が無いとは、考えづらい。
「あの怪物も、貴女達の一族と関係があるんですか?」
「言っただろう、私達はプロテウスの子孫だと」
「…………?」はぐらかすような女性の言葉に、メリーを首をかしげた。しかし、それこそが正に答えなのだと、すぐに気がついた。いや、認めたくなかっただけで、本当は薄っすらと気がついていた。メリーの胸の内から溢れてきたのは、驚きではなく嫌悪感に近かった。「…………まさか──!」
──プロテウスは予言の力と同時に、変身の力も持つ。
「私達は、強い予言の力と引き換えに、夜闇の下か、この地下の国でしか生きることができない。日の光を浴びると蘇るんだ。──大いなる父の力が」
地上へ近づく二人の歩調が、にわかに遅くなった。
「さっき、地下が故郷だと皆が思っている、と言ったが、あれは方便だ。昔、太陽を見ようとした男が一人だけ居た。惨劇が起こることなど、死者に訊くまでもなく分かっているはずなのに……。掟を破った男を、プルートは罰した。男は、永遠に苦しむ化け物になった」
「…………」
「予め運命を知っていた者たちは、化け物を殺すことはできずとも、閉鎖した水路へ閉じ込めることには成功した──。何百年も前の話だ。寓話や警句を含んだ昔話だと、私達は思っていた。だが……数ヶ月前、突然封印されていた水路が崩壊した」
「そうか、河川工事で……!」
エルラフグループが行っている河川工事と時期としては一致する。
「地上で何が起こったのかは、私達は分からないがな。一部の賢人の霊を除いて、地下の霊は、地下のことしか知り得ない」
「それから地下の人たちが襲われ始めた、ということ?」
「そうだ。あの怪物の予知は、私達のそれとは比べ物にならないほど強力だ。対策を講じようと、どう逃げようと、必ず先に回り込まれる。周りに居る霊はすべてヤツの目であり、耳である。武器も暗闇も、障害になりえなかった。ごく一部の才有る者は対抗することもできたが……それも一瞬だった」
不意に女性は振り向いた。しかし、その目はメリーを見ていない。遥か後ろに置いてきた、あの男性の姿を見ているのだと、メリーは思った。
「神殿の近くに居た者たち以外はすでに食い尽くされた。──思えば、あの狭い通路は元より、あの怪物の侵入を意識して造ったものだったのかもしれない」
「食い尽くされた……? たった数ヶ月間で……?」
「ああ。怪物以外にも、洪水による犠牲者もいたが──。もう、怪物狩りに出なかった老人と女だけしか残っていない。……とは言え元々、私達はこの数百年のあいだに急激に数が減っていた。それにしても、ずいぶんと滅びへの時間が早まったものだが」
予知の力があるせいなのか、彼女の口調はひどく達観していた。話を聞くメリーのほうが語気が強いほどだった。
しかし、心が傷んでいないわけなどないだろう。一族も、家族も、そして最後に残った伴侶すらも喪ったのだ。
「力になれることはもうないっていうのは、そういうこと……?」
「そうだ。私達はじきに滅ぶ。──ついたぞ」
伏せていた視線を上げるが、メリーはその眩しさに一瞬たじろいだ。地下で見ていた炎の色に似てはいたが、その力強さはまったく桁が異なる。──それは、赤く色づいた夕日だった。下の方には、陽光が反射する水面も見える。チャルノ川へ注ぐ排水路の一つを通ってきたのだ。
「私はこれ以上前には進めない。行け」
メリーは女性を追い越すと、排水路の出口の際に足をかけた。目の前には、赤く染まった河川と狭い河川敷が広がっている。急に元の世界へ戻ってきた実感に襲われ、地下の景色が夢だったかのようにすら思えた。
しかし、もう一度振り向く。
「あの──名前、訊いてなかったから……」
「私か?」女性はひどく意外そうな貌をしてから答えた。「テレイシア。お前はもう、知る必要のない言葉だ。それよりも──待っている人間がいるようだぞ」
「え──?」
メリーは河川敷に出ながら周りを見渡す。すると──
「存外、早かったですね」
思わぬ人の声に、メリーは飛び退いた。
「院長!」
返ってきた姉妹を出迎えたのは、降下教会のアレクサンドラだった。彼女だけではない。
「! それにフロレクさんと……誰?」
ベネディクト・フロレクと、聖ミコライ教会の神父もアレクサンドラの後ろに続き河川敷へ降りてきた。
「よ、良かった……アンタまで死んでしまったら、俺はアンタの院長にどう顔向けしたら良いか──!」
「わ、ちょっ……! こんなところで泣かないで!? ……というか、どうしてみんなここに?」
「地下に住む者たちが、予言の一族であることまでは分かりましてね。排水路のような地下に繋がる場所で待っていれば、そこにメリーを案内してくれるのではないかと」
「霊たちが言っていた。そこの少女と同じ、妙な黒衣の女が川岸で待っていると」
排水路の陰から漏れる声に、フロレクと神父は肝を潰していた。
「素晴らしい精度と応用性です。──しかし私が推測するに、その能力は地下空間や夜間に限定されるものでしょう? 地下も夜も、世界中ほとんどの世界観において、冥界や死霊と結びつけられるものですからね」
「……それについては分からないな。試そうにも、私達は日の光の元へ出ることすらできない」
アレクサンドラはその回答を聞いて、満足そうに喉を鳴らした。
「やはり、地上へ出ることには重い制約があるようですね」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってください。もうそこまで理解っているんですか!?」
「調べろ、と言ったのはお前でしょう? ですが、すべて推測の域を出ません。地下で見てきたことを話しなさい」
メリーは地下に広がる街の様子と、テレイシアから聞いた怪物の由来、そして、すでに多くの者が犠牲になっていることを説明した。
日が沈み周囲が青みがかっていくにつれ、テレイシアは張り詰めていた緊張感が緩んできたらしく、排水口の淵に腰を掛けてその様子を見つめた。周りにいた者たちへ説明するメリーの言葉を彼女は理解できなかったが、少女が必死に何かを伝えようとしていることは理解できた。
「やはり変身の呪いですか。しかし、狼男などのそれとは次元が違うもののようです。人に戻すことはできないでしょう。それにしても……」アレクサンドラは眉を顰めた。「時系列からして、牢獄となっていた水路の崩落と、エルラフの起こした水難事故は関係が無いようですが……妙ですね」
ブツブツと一人で考え込み始めた院長をよそに、メリーはテレイシアのほうへ目を向ける。
「人間には戻せないんですか?」
「無理だな。あれはもう人間ではない。……恐らく、生き物ですらないのだろう。死者の国から這い出てきた化け物だ」
「そう…………。だったら、倒すしかない、か」
その言葉にテレイシアは驚いた。
「倒せると思っているのか?」
「どうにかしなきゃいけないんです。たとえ、もう手遅れであっても。それに、フロレクさんだって安心できないですよね?」
名前を呼ばれた男が、頭を掻きながら口を開いた。時折、テレイシアのほうに、鎮痛な目を向けながらでもあった。
「あ、ああ。あの怪物は、地下の人々だけの問題じゃないんだ。……俺は、こんなことを言う立場なんかじゃないのだが……」
「良いんですよ、それで」メリーは携えた鉄鎚を持ち上げると肩に担いだ。
「助けを求めちゃいけない人なんて居ない。そして、誰の手でも取るのが降下教会なんだから」
「フフフ……言うではありませんかメリー」
「え、なんですか急に。怖いんですけど……」
いつになくご満悦の院長からメリーは距離を取る。
「それに、辺獄の調停者たる我々にこれほどお誂え向きの仕事はありません。──ということで」アレクサンドラはテレイシアを見据えた。「一つ、視ていただきたい未来があります。もう一度水難事故が起きたらどうなるか、を」
次の話 →
【CREDO QUIA ABSURDUM】
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