ブルースはリアリティよりリアル 映画『THE FOOLS 愚か者たちの歌』
普段は映画を観ながら、こんな風に、あんな感じで感想を書こうと思いめぐらす。
だけどこの映画を観てる間じゅう、探しても、探しても、ぴたりと来る言葉が思い浮かばなかった。
『THE FOOLS 愚か者たちの歌』
http://thefoolsfilm2022.jp/
奇しくも甲本ヒロトは言った。
リアリティじゃなくてリアルだと。
リアルの前に、批評家の言葉は無力だ。
それでも、のたうち回ってでも、何か言わずに書かずにいられない映画だった。
そこにあるライブは、
お客さんの生きてる時間を鷲づかみにする。
伊藤耕が現れただけで歌になる。
川田良のギターはキレッキレにスパークするし、壊れても美しい。
加えて中嶋一徳のベースのウネリはなんだ。
ブルース・バンドよりブルースで
ファンク・バンドよりファンク。
それでいてサウンドに負いすぎず、日本語がちゃんと聞こえる。
「ちょっとソー・バッド・レビューに通じる」と私が言ったら、あぁそうだ!と知人は同意した。
ブルースやファンクが好きだったというベースのカズさんにはこんな発言もある。
志田歩さんが指摘するように、彼らの演奏にフレーズがトレースされたわけではないだろう。でも聴けば、あっ、ブルースに同期しちゃったことのある人の歌だなとピンとくる。
そう思いながら志田歩さんの著書『THE FOOLS MR.ロックンロールフリーダム』を読んでいたらこんな伊藤耕の発言があり、思わずページをめくる手を止めた。
こんなに鮮やかに、ブルースに惹かれる理由とを語ってくれるなんて。リアリティという言葉を使っているけれど、つまり、リアルを歌うということはこういうことなのだろう。
自分という存在を確かめて確かめてステージに立っていた。
反体制と表現する人もいるが、真っ向から政治に立ち向かったわけではない。真っ当に生きようとしたら、あぁなったというのが本当のところではないだろうか。
専門誌とは全く別のところで、よほどブルースという音楽のもつパワーを言い当てている。
それがロックバンド
志田歩さんが書いていた。
川田良さんに
「伊藤耕さんの書いた歌詞で、特に好きなものはどれですか?」と尋ねたら
「全部素晴らしいでしょ」
と返ってきたそうだ。
それがバンドだ。
お客さんはステージの中の目に見えない信頼関係に
しびれるんだ。
だからメンバーが離れたり、引き寄せられたりしながら
THE FOOLSというバンドが続いていったのもわかる。
こいつとバンドでいたいんだ
との思いが画面からびしびし伝わってきた。
離脱せざるを得ないメンバーもいた。
でもそれもこいつとは“バンドでいられない”という気持ちと裏表なんだろう。磁力が強くて引き合うがゆえに、
音楽を介して一緒にやっていくことは叶わなかった。
次々とメンバーが亡くなっていくのは
やりきれなかったが、中途半端な虚しさを引きずって終わらなかったのは、やっぱりTHE FOOLSがリアルだったからだ。
何度も蘇ってきたからだ。
彼らの死を美化するような描き方をされていたなら
私は終演後拍手を送らなかっただろう。
フールズとじゃがたらと、今は亡き下北沢の駅前市場の飲み屋と、個人的に知っていたあの人やこの人、あらゆるものが、彼らを通じてつながっていったのも驚きだった。
ドラッグとパートナー
ドラッグについては、
もしやっていなかったら・・・と思う気持ちはある。
現代では法に触れるのもしかたない。
でも単に弱かったからとか、いいかげんだったからだとは思えない。やめればステージに立ち続けられたかどうかもわからない。
むしろ私は、無理やりにでも止めさせなかったパートナーの強い気持ちに驚かされた。生き方をまるごと受け入れるとは
ああいうことなのか。
元夫の煙草さえ止めさせられなかった私である。
あすこまで支えられる自身はない。
ファンのためだけに創られた映画ではない
みんな自分の思うとおりに生き
思うがままに愛したいと思っている。
時代に流されないで生きる。
人らしく生きる。
正解なんかわからない。
それがリアルってやつだからだ。
この手の音楽ドキュメンタリーはファンのために創られることがほとんどだ。
だがこの映画は、そうじゃない。
ロックンロールは生き方だと一瞬でも思ったことがあるのなら、自由を求めるために大きくても小さくてももがいたことがあるのなら、愚かであることと向き合ったことがあるのなら、きっと響き合うものがあるだろう。
だからこそ、きっとこれからも折に触れ、フールズというバンドの存在とともにこの映画は誰かのこころを捉えるづけるに違いない。