たらまのおとうと多良間に行ってきた その1 出立編
所沢にある「居酒屋たらま」「たらまガレージ」
5月半ば、宮古島と多良間島に行ってきた。
音楽にまつわるとは言え、最終的に20人余りが集った、私の中でも、いと珍しきツアー。
そしていつも以上に、旅の不思議な余韻がすりすりと、こころの中で糸を出し続けている。
そこで備忘録の意味もあり書き残しておくことにした。
そもそもこの旅は、多良間島出身の“おとう”の里帰りに同行しようというもの。
埼玉県の所沢、正確には小手指(こてさし)には「たらまガレージ」という食堂みたいな平屋のライブスペースがある。
この隣にくっついているカウンターだけの店が「居酒屋たらま」で、そこの店主が“たらまのおとう”。
この建物、みんな、おとうが建てたそうだ。
音楽のまち所沢とライブ
私はときどき東京から西武線に揺られ所沢へ、でかけていった。
たらまに限らず、所沢には音楽に対し温かい気持ちをもった人が多いし、ミュージシャンもたくさん住んでいる。
お隣の狭山、入間も含め米軍カルチャーが身近だったことや、東京との程よい距離感も関係しているのだろう。
同じツアーでも、所沢で観たいと思うことは何度もあった。
いつも、近所の友だちのように迎えてくれる人たちがいる気安さもある。
出かけていくときは一人でも、会場ではいつも一人じゃなかった。
「たらまガレージ」では、ライブの後に長机を囲んだなごやかな宴の席となり、興がのれば、おとうの三線が始まる。
おとうは88歳(一節によれば90歳)になるのだが、今でも朝まで飲んでるし、話すのが好きだし、女の子にはチョッカイ出すし、気に入ったライブならライブハウスにも繰り出し、気の向くままに踊り出す。
たまにおとぅのことを知らない人に、静かにしてと怒られたりもする。
いやいや“88歳になるのだが”っていうのも先入観か。
とにかく一度会ったら忘れられないほど、命にパワーを感じる人だ。
おとうの里帰りは、通称所沢チームが中心になり、3年前にも企画されたが、土壇場で「行かない」とおとうがごねて中止に。
しかし、このたびは大好きな歌い手の「ゆうぞうさん、キヨシちゃんが行くなら行ってやってもいい(!)」
とのことで、豊田勇造、W.C.カラス(本名がキヨシ)の両シンガーをそれぞれ京都、富山から呼び寄せての里帰り決行となったのである。
飛行機!2年半ぶり
早朝、羽田を出立 宮古島へ
朝8:10発のANA便に乗るため
最寄り駅から5:47の電車に乗って羽田空港に向かう。
「出勤時間は大雨にご注意ください」
と昨晩のニュースは繰り返していたが、小雨模様。
今の季節、空がもう明るいのは救いだ。
カメラの入った大きめのリュックを背負い、ガラガラとキャリーケースを引っ張る。
山手線だけは座れず、仕事に向かう押し黙る人たちの間でカートをおさえて別の意味で息をひそめる。
6:55発のJAL便に乗る先発隊にメッセージを送ると
「着いていますがすったもんだでいまだ荷物預けに並んでいます」。
おいおい、だいじょぶか。
空港に着く。
自分の便がわかっていても、出発便の案内ボードを見上げてしまう。2年半ぶりの飛行機だ。
荷物を預け身軽になった後、儀式のようにホットコーヒーを飲み、ついでにホットドッグを頬張る。
そして案内板が英字表記に変わったところで写真を撮る。
「行ってくるぜ!」と留守番の愚息に送った。
宮古行きはバスで5分ほど離れた場所にあるサテライトからの出発。バスを待つ時間があったので、意外とぎりぎりになった。なのに待合室でUSBを見つけスマホを充電。
ANA便。飛行機はすいていた。
ならび3席、わたしだけ。
USBポートがあったので、また、とりあえずの充電する、する、する。これはもう手癖のようなものだ。
所沢チームを追いかけて、行きはわたし独りである。
独りの時間はわたしの安息。今夜はホテルも一人部屋である。
モニターをコックピット画面にセットして、ちらちら見ながらiPadで書きかけの原稿を書く。
羽田空港ライブカメラや航空機追跡アプリが好きなわたしには、飛行機が飛び立ち、前に進んでいるというだけで満足だ。
宮古でおとうと墓参り
3時間あまりグレーの雲の中を飛び、11時過ぎに宮古空港に着陸。
先発隊は1時間以上前に着いているはずだが、メッセージを送ると、まだレンタカーを待っているという。
荷物を受け取り、出口のガラスの向こうで所沢チームのハナちゃんが手をふるのが見えた。
ほっとす。
それにしてもはりつくように蒸し暑い。
春と冬の間、忘れていた感覚。
加えて私はレインコート代わりの上着を含め4枚も着ている。
サクマさん、はなちゃん、タダさん、カラスさんと私の5人を乗せたクルマが、おとうと息子のカズさんのクルマを追いかける。
湿気をはらいたくて、コンビニでサイダーを買った。
まずはおとうの家の墓参りをするという。
「変わったなぁ」「こんなマンションあったっけ」とサクマさん。サクマ夫妻は何度か島を訪れている。
寺や神社があるわけでなく、まちの風景の中になにげない顔で墓は現れた。でかくて家のような形をしており、ちょっとニューオーリンズのセメタリーに似ている。
皆で、蒸すね、虫除けいる?と言いながら、ぼうぼうの草を手分けして引っこ抜く。親戚の家に手伝いにきたような気持ち。
おとぅの息子のカズさんが「100%はあるね」と湿度にあてられ、汗をぬぐう。
10㎝以上もあるナナフシが擬態してゆっくり移動している。
墓の区画はずいぶんと広い。聞けば、墓石の前で親戚一同、料理を広げ酒を飲み、供養する習慣もあるそうだ。
花瓶に水を入れるも、花が見当たらない。
「お花買ってきましょうか・・・」
と気をきかせようとしていると、おとうが、そのあたりにあった大きな葉を2枚手にし、器用にいけた。
おとうが手をあわせ
「友だちがたくさん来てくれました」
むにゃむにゃとご先祖に話しかける。
私たちも手を合わせ「こんにちは」と挨拶し、旅の無事を願う。
漁港の食堂 そばの味
手についた泥をペットボトルの水で洗い流し、ようやく昼ごはん。と言いたいところだったが、おとうに勧められた店は入れず、お目当ての店も行列ができていたが、まだまだ観光客が少ないのか平日休業も目につく。
あちこちふられて、ようやく行き当たったのが荷川取漁港の中にある、その名も「みなと食堂」。
鰹塩アーサそばに、もずく、イカのてんぷら。てんぷらは1つ70円。
アーサという海藻をねりこんだそばは緑色。磯の香りがいい。
東京で食べる沖縄そばも好きだけど、これはずっとおいしいなぁ。気分じゃなく本当においしい。
さとうきびとイモモチと池間島
途中、白い砂浜のビーチで痩せ細ったネコをあわれんだり
乱舞するチョウの気迫に見惚れたりする。
はなちゃんが、「みんな革靴はいてるの」と笑う。
確かにタダさんは革靴のようだし、私も革ではないがまちで履いてきたそのままの靴だった。砂にずぼずぼ足をとられながら、それでも砂浜でそれっぽくポーズをとる。
池間大橋を通って、北部にある池間島へわたる。
橋の袂には、みやげもの屋があって観光バスも来ていた。
添乗員のバッジを確かめるとJTBだった。
「あっまいなぁ」
「あまいわ」
さとうきびジュースを口にし、おばちゃん同士が顔をしかめる。関西の言葉だ。
束になったさとうきびは、機械に送り込むとローラーで圧搾されてジュースになる。
ぺしゃんこになり店の前に落ちるがままになっている、さとうきびの末路が滑稽だ。
子どものころ、囓ると甘い、さとうきびという植物があると知り驚いた。あれは、さとうきび畑の絵だっただろうか。絵の中の子どもは一口囓ると、ぺっ、と茎を吐き捨てた。
囓るのは叶わなかったか、一口含んだジュースはどろりと甘く、草臭く、あぁ、夢がひとつ叶ったかなとは思えた。
みやげもの屋の3階は展望台になっていた。
晴れていれば、さぞ青一面に海が広がっているのだろう。
強風に煽られながら階段を降りると、店のおばちゃんが
「イモモチ、あつあつ、できたてだよ」
と、行く手を阻むかのように勧めてきた。
絶景をタダで見せてくれるなんて話がうますぎると思ったら、やっぱりそういうことか。
私は愛想笑いして通り過ぎたが、はなちゃんが紅芋でつくった「イモモチ」を1つ買った。
おすそ分けしてもらったが、まだあったかいイモモチは、まぶした胡麻も香ばしく思っていたより甘さも控えめ。
ぺろりと別腹にはいった。おばちゃん、ごめんなさい。
島へ渡る 伊良部島
次に伊良部大橋をわたり伊良部島へ渡る。
伊良部大橋は橋長3,540 mと、離島を結ぶものとしては最長だという。
橋の途中が山型に大きく弧を描いているのは、軍艦がくぐれるようになっているからだと誰かが言った。
豊に湛えた水と、長い橋が架かる風景はニューオーリンズで見た、海みたいなポンチャートレイン湖を思わせた。
もっとも、あちらの橋は38.42kmもあるのだが。
林間学校からも逃げ出したかったほど団体行動が苦手な私だが、この頃になると、みんなで一緒に旅する道中がものすごく楽しくなっていた。
見えるもの、すべてを指さして、しゃべりまくりたかった。
実は旅に出る前、所沢チームのサクマさんから
「どこに行きたいですか」
と問われたときは、一瞬とまどった。
旅といえば音楽の旅がほとんどの私は、観光するという頭がなかったのだ。それで
「海の見えるところ」
とあやふやに答えた。
現地に着いたら、ちょっと食べて、ホテルで休んでライブに行く。終わってから打ち上げる。それが、あたりまえだと思い込んでいた。
過去には観光の仕事もしたことがあるのだが、一番すきなのはコースをつくったり、取材して紹介することであり、誰かのためだった。またそれがやり甲斐に通じていたわけだが、逆に自分の楽しみだけで旅行をすることは、ほとんどなかったかもしれない。
とにもかくにも曇り空の南国で、旅は始まった。