日暮泰文さんに送る言葉
Pヴァインの創業者である日暮泰文さんが2024年5月30日に逝去されました。これは告別式での弔辞の原文です。
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日暮泰文さんの訃報を受けて以来、日暮さんのような文章が書きたいと背中を追ってきた私は、大黒柱が失われたような心細い気持ちで過ごしています。
特に今年は雑誌ブルース&ソウルレコーズ30周年の記念すべき年でもあり、日暮さんがいらっしゃらないことがどんなに頼りないことでしょうか。
体調がすぐれないことは耳にしておりましたがその雑誌の最新号の連載でもひとことひとことからは気力が満ち溢れ、マディは如何にしてシカゴ・ブルースを打ち立てることになったのか、40年代のアーカンソー・デルタブルースがどれほど重要であったか、そのあたりを述べてみようとおっしゃっていました。それだけに続きの読めないことが本当に残念です。
初めて日暮さんにお目にかかったのは、高校2年生の暑い夏休みの日でした。友だちと下北沢にあったザ・ブルースの編集部におしかけたのです。日暮さんは1階の酒屋さんからコーラを買ってきて、一方的にブルースがどんなに好きかまくしたてる私たちの話を、黙って聞いてくださいました。そのとき帰り際にくださったPヴァインのキティ・スティーヴンスのレコードは今までも大切な一枚でしたが、これからますます宝ものになります。
それから私がブラック・ミュージック・リヴューに原稿を書くようになってからは取材、編集などたくさんの貴重な経験をさせていただきました。
そんな話しなくていいよと言われそうですが、こんな思い出もあります。あれは1980年代前半だと思いますが、当時はPヴァインの事務所で少し遅くなるとてんやものをとろうみたいな話になることがあり、だいたいお蕎麦屋さんだったのですが、その日は日暮さんがあの茶目っけのある表情で「ピザがいいな」とおっしゃったんです。
私は田舎の子だったからかもしれませんが初めての宅配ピザでした。そのとき確かシカゴで食べるピザはいかに違うのかの話をしてくださいました。それもあって今もピザを食べるたびちょっと茶めっけのある日暮さんのことを思い出します。
そんなふうに日暮さんは決して口数の多い方ではありませんでしたがそれだけに一言が嬉しかった。いつも一人ひとりの仕事ぶりは気にかけてくださっていました。
『来日ブルースマン全記録』をつくるためテンパっていた私に「どうですか」と声をかけてくださったり「できましたね」とにこっとしてくださった顔は今も忘れられません。そうして見守ってくださることが力になっていたのに、もう叶わないかと思うと心細さはいかほどかと思います。
一方で仕事のたびに宿題がでました。今年に入り関西の憂歌団のマネージャーをされていた奥村ヒデマロさんが亡くなったときにこんなメールを頂戴しました。
「人生と、日本のブルース、音楽の繋がりとか、みえちゃんに取材した上で書いてもらえればなあと思いました。
また彼くらいの存在感のあった人は、やはりああ亡くなってしまったんだあ…と思い出すだけではちょっと足りないような気もしますね。」
これはそのまま日暮さんのことでもあります。
たとえばオバマが大統領になったとき、ただ単によかったねと喜ぶのではなく、B.B.キングやボビー・ブランドが亡くなったとき、ただ単に残念だねと通り過ぎることをよしとせず、立ち止まって未来に向けて何ができるか考える機会を導いてくださったのも日暮さんです。
その基本はどこにあるのだろうと考え続けているとき、ちょっとだけヒントをつかめた気がしたのが「ニッポン人のブルース受容史」のあとがきを読んだときでした。
「ブルースはストリートにあって、正義、自由、平和を求めるという代弁が本書にもある。世界を見渡せばそれがいまなお満たされずにいることは明白であり、幸か不幸かまだこれからも歌い演奏されていくにちがいない。その音楽の名称がなんであろうとも。」
おそらく日暮さんは自由に人間らしく生きるとことを大切にされた方であり、その上にたってブラックミュージックを紹介することを忘れないでとおっしゃっていたのでしょうか。
ブラックミュージックの魔物にとりつかれた一人として、あの暑い夏の日にライターになりたいと思った私は、少しでも日暮さんの思いに近づけるようこれからも心に残る文章を綴り、できることをしていきたいと思っています。
日暮さん、これからもどうか私たちを見守ってください。
ありがとうございました。
2024年6月8日 目黒・羅漢会館にて
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