どこまで行っても自分は「表現を与えられる側」なのだという悲しみとの向き合い

 ライブは好きですか?演劇は好きですか?ミュージカルは?舞台は?声優イベントなんかも面白いですよ。
 すごい楽しかったり感動したライブや演劇という非日常のあと、日常に戻って心が沈むことがあります。僕はそれを「反動鬱」と呼んでいます。それは「あの楽しい時間がもっと続いていればよかったのに」とか「また日常に戻っちゃうんだな」といった気持ちなんですが、僕の心の中にはもう一つ、「自分はどこまでいっても、ああいう感動や非日常を「与えられる」側でしかないんだな」というものがあります。これは、子供のころからずっとです。
 
 明確に意識したのは、休みの日に教育テレビで流れていたミュージカルを見た時でした。確か小椋佳さんが企画したミュージカルで、中学生とかそこら辺の同年代の子が主演の所謂ファミリーミュージカルってやつでした。偶然テレビをつけたらやっていただけだったんですが、すごい感動したのと同時に「同年代の子があんなに輝いているのに、自分は向こう側ではないんだな」と悲しい気持ちにもなりました。当時、毎日の日記が学校で義務付けられていたため、その気持ちを割と率直に書きました。現在の僕よりも年下の当時の担任は「そういう感情を抱けるということが大切だと思います」と、短いコメントをくれました。

 次に覚えているのは、高校のときに演劇部の公演を見た時でした。主演したのがクラスであまり目立たない子だったのですが、演技がすごかったんですね。っていうか、彼女があんな大きい声を出すことにびっくりしました。うちの高校の演劇部は割とレベルが高かったんですが、反面僕が入ってたジャズをやる部活はまあそりゃあ酷かったわけです。そもそも中学時代の吹奏楽部が「人格否定型顧問(吹奏楽部にありがち)」の支配下だったので、嫌気がさして吹奏楽以外の音楽やってただけですからね。このときも自分は「彼らはあんなに自分を感動させてくれたのに、自分はあっち側じゃないんだよな」と思っていました。演劇部を手伝って照明とかもやったことはあったんですが、それでもこの気持ちって解消されないんですよね。

 その後、いつの間にか社会人になり、立派なアニメオタクになり、ライブやらイベントやら沢山行くようになりました。どれも大体楽しかったですが、心の奥底にはいつも「自分はああやって非日常を作って、誰かを楽しませる側の人間ではない」という気持ちがありました。もちろん、その「非日常を作っている」側の方々はすさまじい努力をして、才能もあり、気ままに会社員をやっている自分とは全然違うんです。そういうのを見ないふりして「自分はあっちじゃないんだよな」と悲観していたのは、若さゆえの傲慢さというか、勝手な考えだったのだと思います。

 いつくらいからか、年をとって自分の可能性みたいなものを身勝手に描くのをやめた、悪く言えば「自分の可能性なんてものに見切りがついた」あたりから、そういう妙な悲観が心に占める割合はどんどん減っていきました。

 ただ、年齢をとったことに加えて、一つ決定的だった出来事がありました。僕は大学の法学部を出て、会社では法務の仕事をずっとしていたのですが、あるとき株式の部門に異動になりました。株式課では、一般株主のための会社施設見学という、抽選で当選した株主を1日かけて施設に連れていくような仕事がありました。見学先やお昼ご飯時には技術的なことや会社の経営状況なども全部説明しなくてはなりません。なかには昼食の場で「ちょっとカラオケを歌ってくれ」と言ってくる株主までいました(流石にお断りしましたが)。見学場所に赴くバスの中では、自分がマイクを持って色々説明することもありました。「法学部出て何で俺は観光バスでマイクもってしゃべってるんだろう」と思うことは、1度や2度ではありませんでした。
 ただ、参加した株主にとっては、その1日は非日常なんですよね。3年目くらいで相当手慣れたころには、僕も冗談を交えて説明したりとかしてたんですが、終わったときに「今日1日楽しかったよ」とか「あんたのしゃべりは面白かった」とか「将来広報部長になれ」とか、まあ最後のは無茶苦茶なんですが、そういうことを言って帰る株主が少なからずいたわけですね。自分にとってはどうでもいい日常の延長だったんですが、いつの間にか自分も非日常を誰かに届けてたということに、ふと気づきました。

 上記は極端な話なんですが、何かしら仕事をしていれば、むしろ現実世界じゃなくてもいい、ネット越しであっても誰かと関わっていれば、上記のようなイベントじゃなくても、何かしら自分が何かを伝える場面があるし、それが相手にとっては日常をはみ出したシーンなのかもしれません。それが劇場の舞台や、イベントのステージじゃなくても、自分の言葉遣いや表情や視線が、誰かしらに影響を与えることは間違いない。だから、「自分はああはなれない」と悲観する必要は必ずしもなかったのかもしれません。

 この週末、土曜日に下北沢で劇団山本屋の「誰とも戦わない凜をなぞって」という演劇を、そして日曜日に渋谷で声優の結木美咲さんの誕生日イベントを、見てきました。どちらも本当に終わってほしくない、楽しいイベントでした。前の記事で書きましたが、結木さんのイベントで歌われた曲の歌詞に「あなたの笑顔が私にも見えているよ」というのがありましたが、会場にいる側だって、その反応を壇上の人にも伝えているわけですよね。
 「自分は「あちら側」にはなれない」という気持ちは、正直まだ心の隅っこにはあります。そりゃああれだけ輝かしいステージに行くほどの努力してませんからね。才能もないし顔もこれですし。だから生まれ変わったらそういう仕事をするのも楽しいでしょうね。ただ、だからと言って自分に悲観することはないと、過去そんなことを思って沈んでいた自分に向けて書いてみました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?