愛は禊の先に
過剰にありすぎると見えなくなること、わからなくなることがたくさんある。
物や情報は、もちろんのこと、人への想いもきっとそうなのだと思う。
人を好きな気持ち、想う気持ちはとても素敵なもの。
誰かが大切で大好きで心も頭もいっぱいになると、
そのことしか考えられなくて、応答があると嬉しくてたまらなくなる。
けれど、次第に高揚した気持ちが行き過ぎて、コントロールがきかなくなってしまうことがある。
その人の心がいつでも欲しくて欲しくてたまらなくなる。
そうなってくると、本来ならば「恋」という清らかで美しい流れに怪しい淀みが生じる。
そして、その淀みとともにいつの間にか川の水はその水量を増す。
どんどん、水は溢れる。
溢れに溢れ、最後、決壊してしまう。
そうなれば、相手も自分もズタズタだ。
どんなに、強い気持ちで結ばれて、疑いなく一つであるように思ったとしても、
やはり、人と人は決して一つではない。
悲しいけれど、人と人は一つではない。
相手には相手の時間があり、相手には相手の空間がある。
相手には相手の自由がある。
決してそれを侵してはならない。
一つでいたくて、わかってほしくて、つい強い想いをぶつけ、押し付けたりしてしまうものだけれど、
そんな相手であるからこそ、「この人と私は違う人間である」ことを、
冷やした冷静さを、肚の深い部分に持っているべきなのだろうと思う。
それは、冷たさではなく、共にあるべく配慮であり治水である。
「こうして欲しい」「ああして欲しい」「こうであって欲しい」
相手に対する「欲しい」という気持ちを、禊いで禊いで、
相手に何も求めなくなった先に、もしかしたら、はじめて愛というものは芽生えるのかもしれない。
自戒をこめて。