vol.5 仕事の流儀
お客様は、脚長不等と言う両足の長さが違う障害を抱えておられ、シルバーカーなしでは歩けないようだった。
座る時はそこまでないようだったが、立つ時がとても大変そうに見えた。
ある時、丸テーブルから立ち上がろうと平らな部分に両手をついたお客様。
〝ガタンッ〟
その時、簡易的な丸テーブルが載った重量に耐え切れなかったのか、お客様の方へと傾いた。
放たれた重力と共によろめきそうになったお客様。私は慌ててその身体を支えようと手を伸ばしたが、お客様は自力で体制を整えた。丸テーブルは何事も無かったかのように元の場所に収まっている。
私は同じ事が起こるのを想定して、自分の手をお客様の目の前に差し出した。
すると、お客様は一瞬こちらを見て怪訝そうな顔をした。それから、出されているその手を無視して、先程と同じようにテーブルの高さを利用して立ち上がろうとした。
あら…
私は、一番近くにあった自分の手を拒まれたことに少し虚しさを感じ、胸がズキンと疼いた。時を経て、お客様との親密度が高まっていると思っていたからだ。
しかも、この時のシカトはいつもと違う種類のものだと感じた。
私は、温もりを感じるはずだった手持ち無沙汰の手を見つめ、苦笑いを浮かべながらその手をお客様とは反対側のテーブル面に移動させ、そこに自分の力を加えた。
結局、お客様はいつものように自分の力で立ち上がり帰って行った。
実際のところその出来事以外では、同じ時を過ごす時間が増えるに連れて、お客様の愛嬌たっぷりの憎まれ口はその内容に変化が訪れていた。
「あんた、売り付けるばっかりじゃなくて、会社に言ってバスツアーにでも連れて行ってよ!いっつも売り付けるばっかりでなぁんにもしてくれないんだから!」
お買い物をする度にそう言うお客様。
毎回、同じ事を言うので、本気でバスツアーが企画出来ないか頭をよぎったくらいだ。しかし、百貨店のいちメーカーで、会社は零細企業。そんな大それた企画は、夢を見るだけであった。
ホテルの展示会で社長と初めて会った時も開口一番、お客様は同じことを捲し立てるように言っていた。
その時社長が、突拍子もない要望と威勢の良い態度に、鳩が豆鉄砲をくらったような顔で棒立ちしていたのを思い出す。
このお客様と初めてあったのだから無理もないか…
私は、社長に直談判するまでにバスツアーに拘るお客様の真意を考えてみた。
その結果、お客様は何も本気でバスツアーに行きたい訳ではなく、そこには、私達とどこか違う場所で時を過ごしたいと言う気持ちが込められているのではないかと思った。宝石を通して非日常的な空間を提供する私達に、売るばかりでなく、着ける場所も提供するべきだと思っていたのかもしれない。
お客様に聞いた訳ではないので自惚れかもしれないが、聞いたところで本心を話す訳もないと思い、良いように受け取ったままでいる。
そんなある日、事件は起こった。
その頃、私達の会社はこの大型百貨店に月に1、2週の仕事の依頼を受けるようになっていた。担当の私は、月の半分をこの百貨店で過ごしており、自社の社員よりもこの百貨店の担当マネージャーと一緒にいることの方が多かった。
そう…出足は苦手だったあの新マネージャーだ。
いつの日からか、マネージャーは手が空くと私達の売り場に入り浸り、私と一緒に顧客様を接客するようになっていた。
マネージャーは人当たりが良く、ファンもたくさん出来た。
お客様はその中の一人だった。
私と雑談中マネージャーが売場に来ると、決まって、
「あー来た、来た。◯◯くん、待ってたわよ!!こっち、こっち!」
お客様は嬉しそうに手招きをする。
そして、こちらから見ると大袈裟に見えるほど、
「◯◯くんは気が利いてほんと良いわよねー。それに比べ、この人は売り付けるばっかりでねー」
と言っては、私を横目で睨みつける。
そのうち、この会話がご挨拶のようになっていた。
その日は、一社での大掛かりな展示会が行われており、お客様は商談用の丸テーブルが数台並べてある、一番隅のテーブルに腰掛けていた。
お客様とマネージャー、その部下の女性、そして私の4人で雑談を交わしながら、いつものように商談をしていた最中のこと。
気に入った物が見つかり、和気藹々と話しが盛り上がり、商談も佳境に差し掛かったその時だった…
〝ドバドバドバッ…〟
突然、お客様の座っている椅子から、溢れるように液体が流れ出て来た。
えっ⁈
私は驚いて、椅子の下を見た。
床から水が出て来たのかと思い、そうなりうる場所があるのかと探したが見当たらない。予想だにしない出来事に目を丸くし、それがなんなのか理解するのに数秒を要した。
あっ…
順を追って頭が整理出来た途端、私の心臓は跳ね上がった。流れ出ている液体は、お客様の身体からだったのだ。
私は咄嗟に、お客様の顔よりもマネージャーの方に目を向けた。
マネージャーは私の方をチラッと見たが、おもむろに立ち上がり、商談中の商品が載ったトレーを手にするとあたかもこちらの不手際のような口調で、
「◯◯様、お話し中大変申し訳ありませんが、こちらに移動して頂いてもよろしいでしょうか?」
と、お客様に向かってそう言った。
そして、座っていたテーブルから一番離れた場所にあるテーブルまで歩いて行き、その上にトレーを置いた。
戻ったマネージャーは、未だ座っているお客様を誘導しろとばかりに私に目配せをした。呆然としていた私は、その鋭い眼差しでスイッチが入り、
「◯◯様、行きましょ!」
と言って、立ち上がろうとしないお客様へ両手を差し出した。
お客様は藁をも掴むように、その両手をしっかりと握りしめた。
ヒャッ…
その途端、掴まれた両手がびっしょりと濡れ、自分のスーツの袖口に液体がついた。
お客様は流れ出るものを自分の両手で防ごうとしていたのだろう…
先日はお客様の手の温もりを欲し、今回はその濡れた感触に戸惑いを隠せない私。
もう少しでその感覚の方に引き込まれそうになったが、立ち上がろうとするお客様の重力で我に返った。平静を装いながらマネージャーが指し示したテーブルにお客様をお連れし、腰を下ろした二人。
少し離れた場所で、マネージャーと部下の女性が自ら雑巾を持って来て、びしょ濡れになっている椅子と床を拭いているのが横目に映った。
少しの沈黙の後、
「気持ち悪くないですか?お着替えされて来られては?」
二人きりであることを強みに、私は素直に思ったことを口にした。
お客様は遠くを見据えたまま、
「そうする…」
と、空気に掻き消されそうなトーンでそう言うと、今度はいつものようにテーブルの力を借りて立ち上がった。
少しでも一緒に居た方が良いような気がした私は、歩き出したお客様の横にぴったりとくっついて行った。
歩幅を合わせ、ゆっくりとエレベーターに向かって歩いていると、
「今日、オムツするの忘れたの…」
聞き漏れそうなくらい小さな声が隣から聞こえてきた。お客様の声だと気付くのに時間を要したくらい、その声は微かだった。
えっ? オムツをしてたんだ…
私はそのこと自体に驚きを感じつつ、
〝こんな時、何と声を掛ければ良いのだろう…〟歩きながらそればかりを頭の中で考えていた。
どう見ても大丈夫じゃない状況で〝大丈夫ですか?〟などと聞くほど間抜けなことはない。けれども、掛ける言葉も見つけられずにいたのだった。
そのままエレベーターまで辿り着いた私は、唯一濡れなかった指先でボタンを押し、順番に点灯していく数字に目を向けた。横に立ち竦むお客様の顔を見ることも出来ない。ただひたすらエレベーターの表示を眺めた。
自分の立っている階数が点滅するまでの数分が永遠のように長かった…
やっとのことでエレベーターが静かに開き、箱の中が現れた。
私は箱の中に上半身だけ入り、内側の〝開く〟のボタンを押して、
「お気をつけてお帰りくださいね。お越しになられるのをお待ちしてますから」
そう言って、エレベーターに乗るように促すと、お客様は急かされるようにそれに乗り込んだ。押していたボタンから手を離すとゆっくりと扉が閉まり、箱の中のお客様は私の視界から消えていった。
売場に戻ると、マネージャーと部下の女性の姿はなかった。会場内は、何事も無かったかのように穏やかに、彼方此方で商談が弾んでいる。他のお客様、販売スタッフの誰一人として、今起こった事に気付いた様子はなかった。
私は、販売スタッフに席を外すことを伝え、そのままトイレへと向かった。
小便がついた袖口と両手を洗い流しながら、
〝お客様はまた来店してくれるだろうか…〟
そんなことが頭を過ぎった。
それから突如、小学生の頃に授業中にお漏らしをした男子生徒のこと思い出した。
今日と同じように突然水浸しになった椅子の下。周りの子供達は蜘蛛の子を散らすように、一瞬にしてその子から距離を取った。教室内は、少し離れた場所から好奇の目で見るもの、居た堪れずに目を逸らすもの、そんな傍観者で溢れかえった。
研ぎ澄まされた見えない矢は、降り注ぐようにその子の心を目掛けてグサグサと突き刺さっていた。
男の子は全身の力を手足に込め、下を向いたまま動かない。
すると、一人の女の子が彼に近寄り、
「大丈夫?」
と、声を掛けた。
男の子は更に全身に力を込め、首の骨が折れるのではないかと言うくらいに顔を埋めた。そのうち、誰かが先生を呼んで来て、教室内の呪縛が放たれたようにいつもの空気に戻った。
その時、自分もその仲間であるにも関わらず、いつもの雰囲気に戻った子供達の様子に安堵した感覚が残っている。
ただ、これだけ映像を記憶しているのだから、私も傍観者の一人であったことに間違いなかった。
「お疲れ様でーす」
百貨店のスタッフがトイレに入って来て、現実に引き戻された私。
開きっぱなしだった蛇口を閉め、その方に挨拶を交わして悶々としながら扉を開けた。店内のスポットライトの灯りが私の目に飛び込んできた。
眩しくて目を伏せたその瞬間、脳に稲妻が走った。
そっか!!
私の頭は、霧が晴れるようにクリアになった。その答えが見えたからだ。
百貨店にはクリンネススタッフが常駐している。マネージャーは、そのスタッフを呼ばなかった。
理由は明白だった…
あの時、自分達以外の第三者に状況を知らせることは、傍観者を作り出すことだと言うことを察していたのだ。そうすることで、お客様がどうなるのかまで考えていたのかもしれない。
自身の手を汚しながら、黙々と拭いていた二人の姿が蘇った。
一瞬でも、手と袖口が汚れたことに気を取られた自分が恥ずかしかった…
売場に戻り少し経つと、マネージャーが会場へと上がって来た。
私はマネージャーに話しかけようとしたが言葉が見つからず、口をモゴモゴさせた。
目が合ったマネージャーは、
「◯◯様はどうされましたか?」
と、聞いて来た。
「お、お着替えされてまた来店されるそうです」
今度は、口が上手く開かなかった…
何も理解していなかった未熟な自分を悟られたくない気持ちが、言葉を詰まらせたのだ。
「そうですか…良かった…」
そう言うと、それ以外には何も触れずマネージャーは会場を後にした。
それから数時間後
驚いたことにお客様は直ぐにやって来た。
私が他のお客様を接客していると、会場の入り口付近から視線を感じた。
振り返りそちらを見ると、お客様が忽然と立っていたのだ。
もう⁉︎
来ないかもしれないと言う思いが、その姿を見た時に、飛び上がるくらい心臓が跳ねるのを感じた。
私は、一緒に接客していた販売スタッフにその場を任せ、お客様へ駆け寄った。
「◯◯様、いらっしゃいませ。お待ちしておりました。どうぞこちらへ…」
と、日頃の接客と同じように声をかけた。
お客様は何も言わず、私に言われるがまま席に着いた。
そうしていると、何処からかマネージャーが現れた。
「◯◯様、いらっしゃいませ」
お客様に向けたその笑顔は、なんだか凛々しく輝いてまで見えた。
結局、先程の出来事はまるで無かったかのように、お客様は普段どおりお買い物を終え、再び帰って行かれた。
お客様がいつもと変わらない様子だったことが何よりも嬉しかった。
その後も、マネージャーと部下のスタッフは、この出来事について話しをすることは一度もなかった。
〝無かったことにする〟
この行動が、お客様の自尊心を傷つけることなく再び来店させ、商品を購入までさせたのだと思った。
これが百貨店マン達が考える接客なのか⁈
柔和な態度を崩さず、俊敏な動きを見せつけられ、そのプロフェッショナルな立ち振る舞いに圧倒させられた。
偶々、何も出来なかったことが功を奏しただけの私とは雲泥の差だ。
この大きな違いは、私に強い衝撃を与えていた。この時点で10年近く接客業についていたにも関わらず、仕事のやり方についてこんなにも感銘を受けたのは初めてだった。
この日から私は、自分の仕事について、接客について、今まで以上に考えるようになった。考えていると、いつもあの時の様々な場面が思い出された。
差し出した手を受け取らなかったお客様
差し出した手を握りしめたお客様
オムツをしていると教えてくれたお客様
何事も無かったかのように振る舞う百貨店マン達
そうして行き着いた先は、
接客とは…
お客様を観て察し、どう動くかと言うことなんだと。
販売は、その先に生まれるものなのかもしれない。
これを仕事としている私は、もう傍観者ではいられない。
付け加えると、私達が日頃接しているお客様方は、そう言うこともある年齢なのだと認識する必要があるのだと言うことも教わった。
お客様が体験させてくれたこの出来事は、途轍もなく大きな変化へと私を導いてくれたのだった…
〜続く〜
百貨店を舞台に、出逢えたお客様に販売を通して教えてもらった数々の〝気づき〟による自身の成長記録と、歳を重ねた方々の生き方を綴っています。出会った順で更新していますので、私自身が少しずつ成長していく変化を楽しみながら百貨店の魅力も感じて頂けたら幸いです。 日曜日に更新します!