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vol.7 祖母と私

祖母は私が産まれる以前から盲目だった。
視覚障害の等級で言うと1級で、母が産まれた時点では微かに見えていたそうだが、だんだんと見えなくなってしまったそうだ。
若い頃、稲穂の先が目に突き刺さり、角膜を傷つけたことが原因だったと聞いた。
今では治せる怪我も、抗生物質が無かったその時代…
不運な事故は、祖母の運命を大きく変えてしまったのではないだろうか…

私には歳の近い姉と妹がおり、ありがちな話しだが、次女の私は甘え下手で自立心の強い子供だったように思える。
姉と妹はいつも子供部屋でワイワイガヤガヤと好き放題の遊びを楽しんでいるようだったが、私は祖母の部屋に居ることの方が多かった。
理由は、祖母のお手伝いがあるからだ。
とは言え全てを手伝っていた訳ではなく、思い立ったことを直ぐに行動に移せない祖母に代わって、台所から水を持って来たり、お買い物に行ったりなど、祖母の欲しいものを手元に持って行ってあげるのが私の役割だった。
祖母は壁をつたいながら食事をする為にリビングまで行くことも、トイレに行くことも出来た。
やろうと思えば、不便ながら日常動作の中で祖母に出来ないことは無かったのかもしれない。
しかしながら、祖母はそれ以外のことは殆ど私に頼った。
恐らく、私に動いてもらうことで生活の質を向上させていたのだと今は思う。

薬の時間になると、

「水をくれ」

目薬の時間になると、

「目薬を取ってくれ」

頭が痛いと、

「とんぷく」

タバコがなくなると、

「ちょっとタバコを買って来てくれ」

などと、祖母は悪びれもせず私に用事を言い付けた。
常に祖母と共に生活をしていた私は、瓶に入った液体が二つほど祖母の近くに存在するのを知っていた。一つはセンブリ茶で、もう一つは蜂蜜に大根を漬けた飲み物だった。
センブリ茶は整腸剤、大根の蜂蜜漬けは風邪薬だと言っていた。
祖母がその蓋を開けると異臭がたちまち部屋中を包み込み、私は目と口がくっつくほどに顔を顰めた。

「ばあちゃん、臭い、臭い‼︎」

鼻をつまみながらそう言う私に、

「これは身体にいいんぞ、ちょっと飲んでみー」

と言いながらセンブリ茶を一口飲ませた。
口に広がる苦味に耐えきれず〝オェッ〟となった私は、直ぐに口を濯ぎに洗面所に走った。
咳の一つでもしようものなら〝これを飲め〟と今度は手元に置いてある大根の蜂蜜漬けを持ち出して来る。
〝二度と騙されまい〟と思った私は、

「要らんばい‼︎」

と言って、慌てて飛んで逃げていた。

祖母は広島で育った為、広島弁を使った。
今聞けばぶっきらぼうに感じるが、当時の私はその話し方が祖母だとしか思っていない為、九州弁を話す自分との違いに何の違和感も感じたことはなかった。

歳が近い三人姉妹だが、何故だかいつも仲間外れにされた私。
お菓子を貰えば姉に取られ、泣き出す妹に分け与える。鬼ごっこをすれば常に鬼だ…
そんな遊びが面白いと思えず、途中からは、一人ままごとを楽しみとしていた。
一番好きな居場所は祖母の部屋の押し入れの中で、そこで昼寝をするのが私にとって至極の時だった。
毎日のようにとても近い場所にいた私は、祖母とこのような間柄になるのは自然のことだったのだろう…

成長するに連れ悪知恵が付いた姉と妹は、私が押し入れで寝ている間に外からつっかえ棒をして戸を開かないようにし、それを幾度と楽しんだ。
泣き喚く私の姿を見れたのが余程愉快だったのか、終いには私を布団の中に包んで両端を二人で抑えて出れなくすると言う遊びまで思い付いた。
そんな私は閉所恐怖症になった。
悪気のない子供の遊びは時として恐ろしいと思うが、決して今、それを恨んでいる訳でもない。

余談は置いておいて、話しを戻そう。


祖母の日常は、定期的に玄関に出てタバコを燻らせるくらいで、後はラジオを聴きながら部屋でじっと座っていた。
夕方7時には布団を敷いて寝る準備に取り掛かる。
すると面白いことに、日中まるで寄り付かない妹がやって来て、

「ばあちゃんと寝る‼︎」

と言い出し、祖母と一緒に寝るのだ。
夜になると子供部屋は姉の一人部屋へと変化し、結局余った私は、祖母と妹の横たわる隣に布団を敷いて寝ていた。
いつだったか祖母の部屋のテレビを買い替えた時に私がテレビを見ていると〝ドリフターズ〟を面白いと祖母が言い出した。
それからと言うもの普段テレビを点けない祖母は、〝8時だよ全員集合〟だけは観るようになった。
途中、その後にある〝土曜ワイド劇場〟に副音声が入ることを知り、その日から祖母の部屋では三時間のテレビ鑑賞会が始まった。
幼い私達は、普段は21時には電気を消して眠りに就かなくてはならなかった。
しかし、祖母が観ていると言う理由で、土曜日だけは23時までテレビを楽しむことが許されるようになったのだ。
薄明かりにした部屋の中で、大人しか見てはならないようなサスペンスドラマを布団を被りながら見るのは最高で、私は土曜日が待ち遠しかった。
ふと隣を見ると、妹は毎度よだれを垂れ流して爆睡していた。


祖母が唯一出掛けるのは半年に一回の眼科検診で、その道中にお供するのも私の役目だった。
たまに玄関の外まで一緒に出て、駐車場スペースに置いてあるベンチに座って日向ぼっこをするのだが、壁づたいに歩いて行ける場所なのでその時には気づかなかったが、何もない空間を歩くのには一苦労した。
まだ幼い私は、祖母を支えるだけの力は持ち合わせていないのだ。
最初の内はその様子をハラハラしながら母が見守っていたが、その内、経験値が増した私は、祖母が足を運ぶ前に〝何がある〟〝これがある〟とリポートをするようになった。
そうすると二人でよろつくことはなくなった。
それからと言うもの、母は祖母の移動を私に任せっきりとなったのだった。
私は母の運転する車に乗ってからも外の景色をリポートした。見えない祖母に色々な景色を観せてあげたかったのだ。
けれども、直ぐに車酔いを起こす私は途中で吐き気を催し、結局、それどころではなくなるのだった…


唐突に身の上話となってしまうが、私が小学校一年生の頃、両親が離婚をした。
それからの私達家族は祖母も含め、経済的に不安定な生活を余儀なくされるのだが、三年生の頃、母が再婚し弟が産まれた。
八つ違いの弟はそれはそれは可愛いく、毎日その様子を見ているだけで飽きなかった。
しかし、そんな母の第二の人生も長くは続かず、一年と半年後にはその父親は居なくなった。
母が働きに出るようになったそれからは、私が弟の世話をするようになった。

ミルク作りやオムツ替え…

祖母の手伝いは私にとっての日常であった為、そこにこの程度の労力が加わったことに関して、私には何の感情も起こらなかった。
しかも、可愛い弟の世話をすること自体、苦にはならないのだ。
私は何処に行くにも弟を連れて歩いた。
ただ一度だけ、数人の友達と連れだって遊びに行く約束をした時に、弟の面倒を見て欲しいと姉や妹にお願いしたが断られ、連れて行く羽目になった時には猛烈に腹が立った。
自転車の後ろに弟を乗せ、苛立ちを抱えながらペダルを漕いでいると突然タイヤが動かなくなった。私は不思議に思い自転車を止めてタイヤの辺りを見た。
すると、弟の足が車輪に巻き込まれているのだ。
あまりの痛みに弟は泣き声さえ出せずにいた。
戦慄が走った私は、絡まった弟の足を車輪から抜き、肉が削がれ血が滴る部分を押さえながら絶叫し、何度も謝った。
そうして二人で泣きながら家に戻った時、私が咽びながら話す内容をしっかりと聞き、どう手当てをすれば良いか判断をしてくれたのも祖母だった。

幸い弟の足は骨には異常がなく、傷痕だけが残った。結局、友達と遊びにも行けず、あの時の出来事を今になっても弟から皮肉を言われる始末だ。


貧乏自慢をするつもりはないが、その頃から真面目に働いていたはずの母は壊れて行った。
夜の勤めに出るようになり、昼間はパチンコをするようになった。
家はしょっちゅう空けっぱなしだった。
そのうち仕事も辞めたようで、昼も夜もパチンコに明け暮れるようになった母。
家計はカツカツの状態で給食費の滞納まで発生する事態に陥った。
祖母の年金は、入る度に母親が持ち出す。
僅かばかりの残った年金だったのだろう…
年金が入った日には必ず祖母は、

「これでタバコとごぼう天とべっちゃこ飴を買って来い。一つだけお前の好きな菓子を買っていいぞ」

こう言って私をお使いに出すのだった。
祖母は隣町にある魚屋で売っているごぼうの天ぷらが大好きだった。
べっちゃこ飴と言うのはキャラメルを平たくしたような飴で、それも大のお気に入り。
私は弟をおんぶ紐で背負うと隣町まで行き、タバコをワンカートン、五本入りのごぼう天、べっちゃこ飴を一袋、そしてポテトチップスの塩味を一袋買ってから家に持ち帰った。
そうして家に居る祖母、私、妹、弟でそれを分けながら食べるのだ。
これが私達の二ヶ月に一回の贅沢な楽しみだった。
一つ上の姉はいつも遊びに出て、家に居ることはなかった…


私は幼い頃から、自分が体験したことや学校での出来事を逐一祖母に話して聞かせた。
祖母は何を言う訳でもなく、いつもその話にじっと耳を傾けていた。
生活が不安定になってからはお菓子を口にする機会も少なくなった私達だったが、母は食事だけはきちんと食べさせて出掛けていた為、ひもじい思いはしたことは無かった。


ある時学校の給食時間に、斜め前の席の女生徒がカステラを机の上に出して食べ始めた。
なんでも胃腸を壊してしまい、保護者からその日は給食ではなく持参物を食させるよう依頼があったらしかった。私はその様子を見て、カステラが無性に食べたくて仕方なくなった。
同級生の病気を心配するどころか、羨ましさまで感じながら帰宅した私は、祖母にそのことを話した。
すると祖母が、

「わしの言う通りに菓子を作ってみー」

と言いながら、ゆっくりと立ち上がりリビングへと壁をつたい歩き出した。
私は祖母が何をしようとしているのか分からないままその後を追った。

「ボウルに麦粉をいれてみろ」

突然そう言われ、私は慌てて台所の棚からボウルを取り出した。

「麦粉ってなん?これ?この白いの⁇」

薄力粉を手にした私はその袋を広げ、自席に着いている祖母の指を袋の中へと持っていき、それを触らせた。

「おう、これたい。これをボウルに入れるんたい。そして、卵と砂糖を入れて混ぜろ」

祖母は淡々と指示を出した。
私は言われた通りの物をボウルに入れ、それを混ぜた。そうして、

「ばあちゃん、混ぜたよ」

と、祖母に報告した。
それを聞いた祖母は、

「フライパンに油をひいてそれを焼くんたい。火を使ったらお母さんにどやされるけん、内緒にしとくんぞ。火の元だけは気をつけろよ。目を離しちゃいかんぞ」

と、いかにも恐ろしいものを扱うような口ぶりでそう言った。
私はドキドキしながらフライパンに油をひき、コンロの火を点けた。
小麦粉の塊りのようなものをフライパンの上にのせ焼き始めたが、その時点でも何が出来上がるのか私にはさっぱり見当が付かなかった。

「ばあちゃん焦げよるよ。もう良いやろか?」

だんだんと黒焦げてきたその塊りを見て、私は祖母に進捗状況を報告した。
椅子に腰掛けたままの祖母は、

「もう良いんやないか?火を消したらガスの元栓を締めとけよ。よう片付けとかんとお母さんにバレるけんの。麦粉も綺麗に片しとけよ」

と、後始末の方に力を入れて最後の指示を出した。
出来上がった小麦粉の塊りは真っ黒で、お世辞でも美味しそうには見えなかった。
私はそれを器に盛り、祖母の部屋へと持ち込んだ。部屋へと戻った二人は、その塊りを囲むようにして向かい合った。
先に手を出し一口食べた私は、

「ばあちゃん、これ美味しくない…」

そう言いながら舌を出して顔を歪めた。
私が祖母の手に塊りを握らせると、祖母もそれを口に入れた。
そして、

「こんなもんたい」

と言いながら、無表情で頬張った。
この時点で私を支配していたカステラへの執着心は、すっかりと何処かへ消え去っていた。


そう…祖母はいつだってそうだった。
出来ないことで悩むより、出来ることをやってみる選択をさせたのだ。


その日、夕方に食事を作りに戻った母にガスを使ったことは直ぐに勘付かれた。
小麦粉を使った形跡を、子供が考える程度の片付けで中々消せるものではなかったようだ。
母は私を呼び付け、料理を作る作業を見せながら火を使うことの怖さと後処理をコンコンと教えた。
私はこの日を境に、弟の離乳食を作ることが出来るようになった。
転んでもただでは起きない性格は、祖母と母はそっくりだったのだ…


そんなある日、祖母がトイレで倒れた。
私が小学六年生に上がったばかりの時だった。
和式だった家のトイレで、座ったまま後ろ向きに転がった祖母はそのまま動かない。
その時はたまたま母が家に居り、不幸中の幸いだった。病院に運ばれた祖母は、そのまま入院することとなった。
意識が戻った祖母は病院に居ることを認識出来ていないらしく、看護婦(今の看護師)に私の名前を呼んでは〝水をくれ〟〝目薬を取ってくれ〟と言い付けていたらしい。
看護婦が何度説明してもそれは直らず、退院するまでの二週間ずっと、私の名前を呼び続けていたようだ。
退院の日、母について祖母を迎えに行った時、私の顔を見て看護婦達がやたらと愛想良く笑うので何事かと思っていると、一人の看護婦が近寄って来て、

「貴方が○○ちゃん?会えて嬉しいわー。おばあちゃんが入院している間は、私達皆んなが○○ちゃんだったのよー」

と、祖母が私の名前を呼ぶ度に、看護婦達が代わりに返事をしていたのだと言う事を教えてくれた。

祖母は、意識は明確になったが立って歩くことが出来なくなった。
入院当初は、1ヶ月間の病院生活を通告されていた。しかし、どうしても帰ると言って聞かない祖母は二週間で家に戻った。
病院からは〝家族が介護をする〟と言うことを前提として退院許可が出たようだ。
そんなことを全く知らない私は、家に着くと早々に祖母の布団を敷き、そこに祖母を横たわらせた。
一息ついたところで母は出掛けると言う。
その頃、妹はバレーボールクラブに入り練習で家に居ないことが多くなっていた為、その日も家には居なかった。
残された私と弟は祖母の部屋でテレビを観ていた。
すると、

「おい……おい……」

祖母が小さな声で私に話し掛けた。
擦れるようなその声は、耳に直ぐには辿り着かず始めは気づかずにいた私。

「おい…○○…」

名前を呼ばれ漸く気づいた私は、座ったまま手と膝をつき、這うようにして祖母の枕元へと近寄った。そして、祖母の声色に合わせるように、

「なん?」

と、ひそひそ話をするかの如く、耳元に話し掛けた。

「オシメを替えてくれんかのう…」

祖母は更に小さな声でそう言った。
寝たままの祖母の口は真上を向いており、その言葉は空中で分解されてよく聞き取れなかった。
私は小声のまま、

「なん?聞こえん⁇もうちょっと大きい声で言ってーー」

と、右手で自分の右耳を後ろから包み、祖母の口元に近づけた。
すると祖母は、

「オシメを替えて欲しいんたい」

と、お腹から声を絞り出すようにしてそう言った。私は弟のオムツ替えの経験からその光景が目に浮かび、

「あ〜オムツね。あれ?ばあちゃんオムツしとったん?」

と、素っ頓狂なことを言いながら、祖母の着ている浴衣をめくった。
その時の私は、大人がオムツをすると言う事がどう言うことなのか分かっていなかったのだ。

私は弟にオムツを替える手順で、祖母のオムツに付いているテープを剥がした。
すると、弟の時にはしなかったツーンとする臭いが鼻を突いた。
祖母の下半身が露になった。
そこで急に、自分が見てはならないものを見ているような気不味い気分になった。
私は少し目を逸らしがちに、汚れた祖母の臀部を濡れたテッシュで拭いた。
最後に温めたタオルでお尻を拭き、汚れたオムツを取り替えようとした。
が、オムツがピクリとも動かない。
右や左と引っ張ってみたが、全く言うことを聞かないのだ。
弟の時のように祖母の両足を持ち上げようとしたが、重すぎて片足を上げることさえ儘ならなかった。

「ばあちゃん、オムツが取れん!」

息を切らしながらそう言った私は、力尽きたように祖母の足元に座り込んだ。

「わしが腰を浮かすけ、そのうちに取れ」

祖母のその言葉を聞いた私は、奮起して立ち上がり祖母が腰を浮かすのを待った。
じわりと上がった腰を確認し、その瞬間にオムツをサッと自分の方へ引き寄せた。
やっとのことでオムツの回収が出来たが、今度は新しいオムツをお尻に敷くことが出来ない。

「ばあちゃん、また腰上げて!」

先程の出来事で要領を得た私は、祖母に腰を浮かすよう促した。
一度では収まらず、祖母が腰を浮かすとその隙間にオムツをねじ込み、また腰を浮かしてはねじ込むを何度も繰り返し、どうにかこうにかオムツ替えが完了した。
かなりの動力で一仕事を終えた気分になっていた私は、なんだか達成感のようなものを感じながらその場に立っていた。
祖母はいっ時何も喋らなかった。
私が汚物を片付けようと部屋を出ようとしたその時、

「すまんのーー。お前に〝しも〟の世話までさせてしもうて…すまんのーー。すまんのーー」

祖母が呟くように何度も何度もそう言った。
これまで何を言い付けても謝ったことのない祖母の言葉に驚いた私は、振り返り祖母の顔を見た。

祖母が目薬を差すときに、潰れたままの瞼から大量の目薬が溢れて出て〝涙のようだな…〟と、いつも思っていた私。
おかしな事に、目薬を差している時ではないのに祖母の頬が濡れている。

あっ…

私はその時初めて、祖母の心の痛みを感じたのだった…


〜続く〜


百貨店を舞台に、出逢えたお客様に販売を通して教えてもらった数々の〝気づき〟による自身の成長記録と、歳を重ねた方々の生き方を綴っています。出会った順で更新していますので、私自身が少しずつ成長していく変化を楽しみながら百貨店の魅力も感じて頂けたら幸いです。 日曜日に更新します!