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三重県偉人伝①伊勢商人・竹川竹斎


関連キーワード:伊勢商人,勝海舟,小栗忠順,佐藤信渕(淵),松阪市



伊勢商人のまち・松阪

江戸時代に活躍した3つのエリアの商人たちを指し「日本三大商人」ということがある。今や商売人のまちとして西日本の顔となっている大阪の「大坂商人」、「三方よし」の思想で知られる滋賀の「近江商人」、そして我らが三重県の「伊勢商人」である。

蒲生氏郷(1556‐1595)

伊勢商人のまちとして有名なのは松阪市だろうか。松阪のまちを整備したのは現在の滋賀県日野町生まれの武将・蒲生氏郷。氏郷は日野から伊勢国に転封となると松坂城を築城して城下町を整備した。そして主君・秀吉のいる「大坂」から「坂」の字をもらってそのまちを「松坂」と名付けた。なお滋賀県日野町は代表的な近江商人のまちであり、氏郷も何人か日野の商人を連れて来たようだ。こうやって氏郷の築いた商人のまち・松阪からたくさんの「伊勢商人」が生まれた。三井グループのルーツである三井高利も松阪生まれの伊勢商人である。なおこんな経緯もあって現在・松阪市と滋賀県日野町は姉妹都市(※正式には「蒲生氏郷公ゆかりネットワーク共同宣言都市」)関係にある。

竹川竹斎(1809‐1882)

竹川竹斎とは

前置きが長くなったが今回紹介する竹川竹斎(1809‐1882)も伊勢商人である。

竹川竹斎(政胖)は文化6(1809)年に現在の松阪市射和町に生まれた。両替商として江戸と大坂に店を構える竹川家は、三井家と並ぶほどの豪商とされていた。竹川三家のひとつ射和の東竹川家の長子として生まれた竹斎は無類の読書好き。しかし仕事に関係のない本を読むことは禁じられており、本屋に通ってその読書欲を満たしていた。その向学心の高さが数々の実績に結びついていくのだが、それはまた後で述べよう。竹斎は12歳になると江戸に発ち、店の見習いとして働き始める。その後大坂にも移って商人としての腕を磨いた。竹斎は21歳にして竹川三家のひとつ・射和の東竹川家の当主となる。ここからは簡単に竹斎の行った事業や功績をいくつか紹介しよう。

松阪と言えば鶏焼肉(写真は隣町のお店だけど)

①    上池普請

竹斎は家督を継いで故郷・射和の水不足解消に乗り出す。荒物屋で知り合った医者で思想家の佐藤信渕(淵)の知性の深さに驚かされた竹斎は佐藤らに教えを乞うて灌漑事業の知識を得ることになる。この4年後には天保の飢饉が起こっており、竹斎の先見の明が光る。新しい池を作り灌漑の整わない村を救うのはもちろんだが、仕事を与えることで日銭を与え、自分たちの力で苦難を乗り越える術を人々に教えようとしていたらしい。勤勉な竹斎でなければ佐藤信渕と交流を持つこともなかったかもしれない。まさに知は力か。

佐藤信渕(1769‐1850)

②    射和文庫の創設

無類の読書好き竹斎だが、その本は本屋で読んだり人から借りたものばかりであった。遠慮の気持ちからいつか自身の文庫(今で言う図書館)を持ちたいと考えていた。息子の成人(1854年のこと)をきっかけにその夢を行動に移すのだが、この竹斎の私設文庫は「射和文庫」という。この「射和文庫」の開設は竹斎の特に有名な偉業と言えるかもしれない。というのも竹斎は射和文庫を「無料の公開図書館」として意志ある者に開いていたのだ。貴重な本を無料で人々に公開するなど当時では考えられないこと。しかし前年のペリー来航がきっかけだったのか、竹斎は「これからの激動の日本の変革に対応できる人材の育成」を目的としていたようだ。竹斎は開国派の論客であり、世界を相手に商売をして国を富ませることを論じていた。

県指定文化財「射和文庫」

③    お茶の栽培

結論から言うと成功とは言い難いが、竹斎は射和村民の窮状を打破するためにお茶の栽培にも乗り出した。ペリーの来航から日本の開国後の未来を見据えていた竹斎。しかし時は尊王攘夷の世。竹斎は書物などで開国を訴え、「攘夷は臆病者の論」とまで言っていた。この状態でお茶の貿易を考えていたのだから命がけである。実際「竹斎が天誅組に斬られた」という噂も広がっていたらしい。

松阪市もお茶どころとして有名

④    万古焼の再興

桑名の沼波弄山が生み出したとされる万古焼を射和でも再興させようとした竹斎。竹川家と沼波家には交流が深く、弄山の死後絶えていた彼流の古万古を再び世に出そうと奮闘した。

松阪市星合町のコスモス畑

⑤    開国論の展開

竹川竹斎と交流の深かった人物として有名なのが勝海舟である。読書好き仲間を通して出会ったと見られているふたりだが、竹斎は勝を「知己」と呼び、生涯を通し互いに仲良くやっていたようだ。ペリーが来航したその年(1853年)、竹斎は『海防護国論』を著して勝に送っている。これは幕府内でも高い評価を得て、のち慶応2年(1866年)には幕府の権力者・勘定奉行の小栗忠順に呼び出されて意見を求められるほどだったという。小栗と何度も面談し、京都へ出向く小栗の船旅にも同行して意見を交換したというのだから驚きである。また船が着いた大坂では老中・小笠原長行に招かれて会談を行っている。竹斎が小笠原に話した「外国米の輸入」などはすぐにでも採用されたという。このように幕府内での竹斎の評価はかなり高かったことがうかがえる。

小栗忠順(1827‐1868)

勝海舟らとの交流

『海防護国論』の翌年(1854年)には『護国後論』も記し、この時点で竹斎は「日本はいずれ開国に至る」ことを予見していた。このとき世界と渡り合う人材の育成を説いていたというのが射和文庫開設の思想に繋がっている。

安政2年(1855年)、勝海舟33歳のときのこと。右近将監・大久保一翁に同行して伊勢の山田にやってきた勝は、竹斎を宿に呼んで海防等について話し合った。翌日には大久保とも顔を合わせて意見を交わしている。なおこの際竹斎は勝に秘蔵の刀を送っている。それを勝は喜び、5年後咸臨丸でアメリカに渡った際には手紙と共に数枚の写真を竹斎に送っている。サンフランシスコで撮られた勝の写真は有名だが、この際彼は竹斎用にも一枚自身の写真を撮って送っている。腰には竹斎から受け取った刀をかけており、写真には自身の決意のメッセージが書かれていた。ちなみにお返しとして竹斎もピストルを受け取っており、これを喜んで周りに自慢していたようだ。

勝海舟(1823‐1899)

チャレンジャーとしての偉人

竹川竹斎は数々の事業に挑戦したがその多くは失敗に終わっている。歴史に名を残した偉人と言うのは難しいかもしれないが、そのチャレンジ精神と先見の明は見事という他ない。何より新時代の到来をいち早く感じ取り、未来を担う人物の育成を説くなど偉人と呼ぶに相応しいマインドの持ち主であったことは確かだろう。また一流の知識人や権力者と渡り合っていける見識の持ち主であったことも疑う余地はない。竹川竹斎は間違いなく三重県の偉人のひとりである。

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参考資料

竹川竹斎刊行委員会(2009)『復刻竹川竹斎』竹川竹斎生誕二百年記念事業実行委員会
※なお竹川竹斎の写真は現存している。私の手元にもそのデータはあるが、Web媒体でほぼ公開されていないことから「子孫にお考えがあるのかもしれない」と判断して掲載を控えることとした。ご了承あれ。

竹斎生家にも近い伊佐和神社

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