「重ねて、ご縁と呼ぶにはあまりにも」
前回の記事に書いた、就職氷河期だった2003年の私の就職活動のあれこれ。今回はその後についてです。
新卒で就職したのは小さな出版社だった。
内定が決まった後に行われた面談の席には、出版部と営業部の部長、それに人事の男性がいた。
入社面接のときと同じように元気にはきはきと質問に答えていたら、当時の出版部の部長が「優秀やな」と呟いた。
私は物心ついたころからうんざりするほど「口から産まれたんだね」と言われて育っている。そう、口だけは達者なのだ。こうして文章を書く仕事をしているのだって、溢れ出す言葉の行き先を求めてのことだ。とにかく口数が多いのだ。余談だけれど、そんなわけで私の座右の銘は「沈黙は金」だ。
前回の記事をお読みいただくと分かる通り、私は決して優秀ではない。苦し紛れに解答した平仮名の「じょうききかん」を部長はご存じないのだろうか。優秀なのは口先だけだ。部長、詐欺グループに騙されないか心配。
*
春休み中に1週間程度の研修があり、出版部に配属する予定だと知らされた。
私は先の出版部の部長に気に入られたらしかった。
研修の間、一生懸命仕事を覚えようと頑張ったけれど、あろうことか私は研修の何日目かに盛大に寝坊をしてしまう。
朝起きたら、始業時刻を過ぎていた。
前日の夜、寝苦しくて少し窓を開けて寝たのだった。
新しく住み始めたマンションは「ロ」の字型に似た形をしており、窓を開けると「ロ」の真ん中を抜ける風が非常にやかましく、携帯アラームの音などかき消してしまうのだった。住み始めたばかりの私はそんなこと露ほども知らず、聞こえなかったアラームにただ首をひねるばかりだった。
とにかく慌てて身支度を済ませて、会社へ向かった。
頭を深々と下げてしきりに謝る私に、皆さんは「いいよいいよ」とやさしく慰めてくれた。
ところが、その翌日だった。
出版部部長の隣に座らされて、出版とは、というありがたいお話を聞いているときに私のお腹が駄々をこねた。
朝一気飲みしたミルクティが悪さをしたらしく、しこたまにお腹が痛い。
膝の上で拳を握りしめて、痛みに耐える。
痛みを忘れようと部長の話を聞こうとするが、言葉がすべて頭の上をかすめていってなにひとつ頭に入らない。集中力が維持できない。
話の合間に「すみません、あの」と遮りたいのだけれど、大切なお話に熱を持っていかれている部長は私のほうなど見る気配もなく、切々と語り続ける。悟りを拓いた宗教者のような、はるか遠くを見つめる眼差しだった。
次第に部長の会話の谷間を探ることに必死になって、ますます気もそぞろになる。
そうあれはまるで大縄跳び。運動神経のない私が混ざるとひんしゅくを買った、小学校5年生のあの大縄跳びだ。みんなのリズムをぶち壊しにして、入るタイミングを何度も見送ったあの大縄跳びのようだ。
それでも、ああ、今だ、と思ったその瞬間をやっと見つけて切り出した。
というより、お腹の具合がタイミングなんて気にしていられないくらい悪くなったのだ。
「すみません、トイレに行ってもいいですか」
絞りだした私に「ああ、どうぞ」と言った部長が思いのほかに「まじで?」という顔をしていたのが今も忘れられない。
大切なお話の腰を折って、大変申し訳なかったと思っている。
部長はなにも悪くない。
そして当然と言おうか、入社後正式に私が配属されたのは出版部ではなく、営業部だった。
こういうのはあまり例がない、というようなことを先輩が言っていた。
*
私のポンコツは入社してさらに露呈されることになる。
入社してひと月ほど経とうとした頃、また盛大に寝坊をした。
起きたらまたしても始業時刻を過ぎていた。もはや「ロ」の字型がどうとか言えない。会社にもマンションにも、なんなら「ロ」にも失礼だ。
すごすごと出社してまたしても深々と謝る私に
「学生気分は終わりにしないと」
と漫画かドラマで見るようなセリフを配属された営業部の部長から言われた。
心から反省したのと同時に、すごく会社っぽいなと思った。
その後しばらくして、私は電話口のお相手に何度もお名前を聞き返したことにより、立派な作家先生を怒らせてしまい、編集部の偉い人から激しい叱責を受けることになる。
その時もまた
「あの先生はな!大先生なんや!!」
とやはり漫画かドラマのようなセリフを言われた。
世の中には実際に大先生と呼ばれる人がいることを私はこの時初めて知った。社会に出ないと知ることができなかったことのひとつだ。
もちろん、編集部の偉い人も、大先生もなにひとつ悪くない。
*
また、文字を書けば書いたそばから誤字脱字が頻発するほど注意力が散漫なのに、その会社はあらゆるものが手書きというアナログぶりだった。
書類の配布には一緒に厚紙が配られる。いわゆるボール紙と呼ばれる、工作で使うあれだ。
その厚紙を書類のサイズに合わせてカットして、穴をあけて、先ほどの書類を綴るのだ。表紙にはこちらももちろん手書きで見出しを書く。先輩方は厚紙のカットにも非常に慣れており、手早くカットして、開きやすいようにカッターで折り目を仕込むということもやってのけた。
書店のデータや顧客のデータも、もちろん手書きで書く必要があり、入社試験で「じょうききかん」と平仮名で書くしかなかった私は、ほんとうに息切れをするような毎日だった。韮崎市や諫早市などはもちろん、愛媛県や新潟県でさえ、いざ書こうとするとはて、と手が止まるのだ。時間がかかって仕方がない。お手本を見てそれらしく書こうとするのだけど、いびつになって行にきちんと収まらない。
ある日、見返したら先輩が誤字を修正テープで消して書き直してくれてあった。
よくぞ働かせていただけたと思うほど、ほんとうに私は出来が悪く、商品の発送をすれば間違うし、伝票を打てば印刷機を詰まらせた。そのたび自ら「失敗は誰にでもありますから」と自分を励ましていたけれど、ある日部署内の男性から「また君か!!」と声を荒げられて驚いた。
私はやはり客観的にもポンコツだったらしい。
*
それでも腐らずに働くことができたのは、受け入れてくれた会社と、上司や同僚のおかげだと思っている。
そして、付け加えると、その会社には非常に個性的な人が多く働いていて、日々、よくわからないことが起きていた。私のポンコツがかすむほど皆さんそれぞれユニークに迷惑をかけていた。
給湯室のガスの元栓の場所を覚えられない後輩に、すぐに煙草を咥えに抜け出すので内線に出ない上司。すべての女子社員を敵に回してもエアコンの設定温度を無茶苦茶に下げたがるおじさんなど、はっきり言ってちょっと迷惑な人がたくさんいた。
そして、今振り返ると、そうじゃなくちゃ、とも思う。
気が合って一ヵ所に集まったわけではないのだから、みんなどうしたってそれぞれでそれぞれだ。それぞれ迷惑でそれぞれちゃんと働いていた。
許し合って肩を寄せ合っているような、そんな雰囲気が結構好きだった。
今はひとりで働いているけれど、そうやってまた誰かと働いてみたいなと思うことが時々ある。
ただ、さすがに学生気分は抜けているけど、不注意なのは変わらないので偉い人をうっかり怒らせることはあるかもしれない。
*
就職氷河期の只中で入社した会社は1年中室温が低くて、いつも寒かった。夏も冬も寒くてひざ掛けが手放せなくて、冬場なんて2枚も3枚も会社に予備を置いていた。
憧れたオフィスライフとは程遠かったけれど、いい職場だったなと思う。
案ずるより産むが易し、ではないけれど働いてみないと分からないことはたくさんあるらしい。
寒さには慣れなかったけれど、手書きにはそのうち慣れて、信じられないことに字がうんときれいになった。素晴らしいことだ。
長く働いていれば感謝してもらえることも少しはあったし、後輩ができればうれしかった。
今でも時々あそこで働いていた時の夢を見る。図々しくも文句ばかり言っていたのに不思議だ。
そして、その夢はいつもなにが起こるわけでもないのだけど、目が覚めたときはなんだか少し幸せなのも、不思議だな、と思う。