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自由と幸

※途中からムーミンバレーパークの「自由でしあわせな生活」というショーの話をしはじめるので、ネタバレが嫌な人は避けてください。

実家暮らしで溜まったお金が、引っ越しや全身脱毛、学費、教習所なんかのお金でかなり減ってしまった。無になったわけではないし、これから貯めていけばいい話だけど、どうしてか薄っすらとした不安がある。それは生活に窮することへの不安ではない。自分が将来、例えば誰かと一緒に暮らすことになったら。誰かを育てることになったら。あるいはもっと近い未来に、自分の弟や妹が、学費や生活費に困ることになったら。わたしの人生やお金は彼らのものでもあるのだと、素朴にそう思って生きている。

ときどき、誰のことも愛していなければ、と考える。そうしたら私は、自分一人のためだけに生きて、めいっぱい自由で、仕事だってもっと簡単にやめてみたり、もっとわがままを言ってみたり、貯めたお金全部使ってみたり、なんだかもっと、いろんなことができたんじゃないかって。


少し前に、ムーミンバレーパークに行って「自由でしあわせな生活」というショーを見た。突然白の預言者という人がムーミン谷に表れて、規範や規則に縛られていてはしあわせになれない!みんな自由になろう!というような声掛けをして、ムーミン谷のみんなが影響されて好き勝手しはじめる。木の上に住み始めるムーミンパパ、宝石取りに行くスニフ、新しい恋人を探しに行くスノークのおじょうさん、みんな待って(;;)と困惑するムーミン。そんな中でムーミンママだけが、みんなが自由に飽き飽きして帰ってきたときのために、ひとりで家を守っている。ムーミンの誕生日を祝う用意をして。そういう話。

そんなママは、誰も帰ってこないと悟ってからようやく、自由でしあわせな、新しい生活を始めようと旅に出る。一方でみんなはママが消えたことに困惑して、果てしない自由に後悔し、ママを探す。

原作を読んでいても感じることだけれど、ママは、自分自身である前に「ムーミンのママ」であり「ムーミンパパの妻」であることを、普段からごく自然に意識して受け入れているのだと思う。ムーミンの世界観を知っている人はわかるだろうけれど、勿論これは、作者が母という規範に縛られて母とはそういうものとして書いているのではない。ただ、ムーミンママはそういうひとなのだ。

彼女は子も夫もいなくなってしまってはじめて、ただのムーミンのおじょうさんになったけれど、最終的には「自由やしあわせは人それぞれであり他人を従わせるのも他人の言葉の言いなりになるのも間違い」とみんなを一喝し、元の生活へ帰ってゆく。ママも含めてみんな、すでに自由でしあわせな生活を手にしていたのだ。この一喝をする役が、元へ戻ろうとするひとが、他ならぬ彼女であることがわたしは一番嬉しかった。


バレーパークは他にも異常に距離の近いスナフキン&ミイとのグリーティングとか解釈一致すぎるスナフキンのテントとか、説明がなさすぎる原作厨大歓喜スポットとかがあって楽しい。ショーの感想もだいぶ端折ってるし、気になればぜひ直接見に行って欲しい。わたしはこれを見てムーミンママのことがかなり好きになった。わたしは母の娘であり、弟と妹の姉であり、恋人の恋人であり……。それはわたしを縛る枷にもなるかもしれないけれど、同時に何にもかえられない幸だと思う。最近は誰かの何かである前に自分であるという生き方が流行りだし、それが向く人はそうしたほうがいいけど、別にそうでなくてもいい。「自由でしあわせな生活」のムーミンママは決して、自我のない傀儡ではなかったから。物語をフィナーレに導くひとだったから。彼女を抑圧された不幸な人だとは読めないから。良いショーだった。

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