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ゆるすということ

※遠藤周作の『沈黙』の話を少しします

軽いパニックを起こした。きっかけは些細な、つまらないことで、そのつまらないことのせいで過去の自分がゆるせなくなり、そこに連なる今の自分、その肉体を汚らわしく感じ、全身を掻きむしりたくなった。

とりあえず寝た。他にどうしようもなかったので。本当は泣き喚いて叫んだってよかったけど、まわりに人がいたし、それを考えられる程度には軽い発作だった。

わたしは自分を罪人だと思っている。これはそういう信仰があるのではなくて、子どもの頃からそう思っているし、事実そうだ。やってはいけないことを何度もしてきた。それには誰が見てもわたしが悪いと思うであろうこともあるし、わたしは被害者ではあったが、その場をやり過ごしたいという思いからわたし自身を売ったのだ、それは罪だった、そう自分だけが思うような出来事もある。

遠藤周作の『沈黙』が好き。歴史が苦手なので史実にはあまり詳しくないけど、島原の乱には胸を打たれるものがある。味わった苦しみの質も量もまったく違うけれど、拷問されて転ばされる……つまり、棄教を強制された多くのキリシタンたちに、わたしはうっすら自分を重ねている。

わたしは転んだのだ。屈するべきでなかった。もっと大暴れして叫びまわってその結果殺されてでも、わたしの体はわたしだけのものにしておきたかった……わたしのゆるしていない人に明け渡すべきではなかった。勿論、わたしは被害者だ。命と貞操のどちらが大事かと言われたら、命に決まってる。怯えて声が出ないのも、力の差で敵わないことも、二次加害を恐れなかなか告発できなかったことも、何ひとつ悪くない。客観的にはそう思うのに、わたしはわたしが許せなくて、わたしの体はもはや汚れていて、時々喉がちぎれるほどに叫びたくなる……。どうしたら清い体に戻れるの?

踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

『沈黙』遠藤周作

『沈黙』の主人公ロドリゴ司祭は棄教を拒み殉教するつもりでいた。しかしそのために日本人の信徒たちが激しい拷問を受けつづけ、彼が信仰を捨てない限り決してゆるされることはない、今ここに響いているのは彼らの呻き声なのだ……そう聞かされ、結局転ぶことになる。引用したのは、踏み絵を踏んだ瞬間に彼が聞いた声である。銅板のイエスは「踏むがいい」と言った。

数多の日本人信徒のために転んだ彼は、そして彼の守った人々は清くない人なのか? 「踏むがいい」と言ったのは彼を惑わしたにせキリストなのか? いいや、イエスはイスカリオテのユダにさえ、「去れ、行きて汝のなすことをなせ」とおっしゃった。それはわたしには、裏切り者に失望し突き放す言葉ではなく、すべてをすっかりわかっていたイエスによる最後の指示だったように思う。戻ってきて「先生、いかがですか」と接吻をする彼に、「友よ」と呼びかけたのだから。

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

‬ヨハネの手紙一 1:9

教養として聖書を読みたくて、昨日から細々読みはじめていた。どうやら、信仰があるならば罪は赦されるらしい。神は弱い我々に寄り添ってくれ、罪を赦し、清めてくださる。それを疑い罪悪感に苛まれ続けているとき、わたしたちはサタンの手中に落ちている。

どんなに生身の人間にゆるされ、愛されたくても、それを得ることは容易ではない。生身の人間は一時ゆるしてくれたとしても、いずれ揺らぐことがあるかもしれない。ペテロはマタイ18:21で、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」とたずねている。これは生身の人間の一般的な感覚で言えば、かなり寛容だと思うが、イエスは「七の七十倍までも赦せ」と返している。勿論これは491回目は流石に怒っていいよって意味ではなくて、何回でもゆるせってこと。そんなことってできないよ。でも、神はそうする。

それに、生身の人間はわたしの過去をすべて知ってくれるわけじゃない。わたしがどんなに苦しかったと話してもすべてを伝えきれはしないし、そもそもそんな話を聞いてたら気が滅入る。誰だってそうだ。それは責められるべきことじゃない。しかし神はすべてを見ておられ、懺悔するならば赦しさえ与えてくださる。

聖書をかかえ布団をかぶってうつらうつらしながら、意図的にぼんやりさせた頭でそういったことを考える。わたしは今のところ信仰を得られていないので、別にそれ自体がなんだってわけじゃないんだけど、途中で気がついた。わたし自身だって生身の人間なのだから、わたしのことを必死に受け入れなくたっていいんじゃないかということに。

今までずっとずっと、わたしのことをゆるさなきゃ、わたしのことを愛さなきゃと思ってきた。周りの人たちはわたしを愛してくれているのだから、それに報いなければ、あるいはわたしがずっと苦しみ続けていることは周りの人にとっても苦しいことだから、そんな動機で。けれどそれって本当に難しくて、何年も何年も挑戦してなかなか成功しなくて、それ自体がさらに罪の意識を掻き立てた。

苦しくて苦しくてそれでも毎日、勝手に溢れ出るネガティブ思考に理性でもって対抗して、結果より苦しくなった。苦しむことをどうしてやめられないのかという問いが、わたしをさらに追い詰めた。どうして? 簡単なこと。病気だから。頭がおかしいからやめられなかったのだ。

2023/8/9 『節目の歳』より

病気で頭がおかしいのは事実で、それは知っていたけれど、それに対して「過去の自分をゆるし、自分を愛そう」というアプローチが間違いだったのではないか、という気づきを得たのは初めてだった。これはわたしの勝手な悟りであって別にキリスト教的な考えではないというのは念頭において欲しいんだけど、結局わたしも生身の人間であり、わたしがわたしを「完全に」ゆるすということはできないのだと思う。そもそも、わたし自身でさえすべての苦しみ、すべての罪を覚えていられるわけではないし、それを知っているのが神だけなのだとしたら……わたし自身を直接にゆるそうなんていうのは酷い傲慢なのではないか。

もう忘れていいんじゃないか。これ以上苦しんでまで、受容を目指さなくていいんじゃないか。もう散々苦しんでずっと痛かった。これからはそのこと自体をそもそも忘れてしまって、ああそんなことあったかも?ってなるぐらいまで……未来に目を向けて、これから罪を犯さないよう気をつけて、愛する人たちと新しい思い出をつくっていけばいいんじゃないか。そしてそれこそが、わたし自身を愛し、存在を受け入れることに近付く唯一の道ではないか。

わたしがとても苦しんでいる時に「聖書を読んでみませんか」と声をかけてくれた人を覚えている。手に持っている新約聖書もその人からもらったものだ。本当は俗な理由で(色んなオタクコンテンツが聖書をモチーフにしてるので読んでみたいって理由で)読み始めたんだけど、まさか読み始めた次の日にパニックを起こして、そうして気づきを得られるとは思わなかった。これも神の思し召しなのかもしれないですね。

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