#3 私を変えてくれた小さな産院の話
助産師のHiroです。
前回は自己紹介として、なぜ子ども三人を産んでから助産師になりたいと思ったかについて書いてみました。
新聞記者として転職し、やっと仕事が軌道に乗り始めた時期に妊娠。なかなか受容できず子どもを産む覚悟ができなかった私を変えてくれた助産師との出会いが、いまの私の原点になっています。
長男を産むために私が選んだのは、UNICEFから「赤ちゃんにやさしい病院(Baby Friendly Hospital)」に認定されている母乳育児にこだわる小さな産院でした。今回はその小さな産院の話。
長男を妊娠したのは結婚して半年、結婚を機に夫が勤める県紙にスポーツ記者として転職し、職場にやっと慣れて仕事が楽しくなってきたころだった。
結婚当初は夫の勤務する支局に夫婦で暮らしながら、本社まで1時間半ほどかけて通勤していた。おなかが目立ってきたころ、見るに見かねたデスクのはからいで、夫婦で本社に転勤することになった。本社の近くで出産する病院を探した際に、義姉に紹介されたのが先ほどの小さな産院だった。
うちで産むならちゃんと勉強してね
「うちで産むならちゃんと勉強してね」
紹介状をもって訪れた初日、医師からまず言われた言葉。下調べをせずに行ったので、これまで通っていた総合病院との違いに驚いた。
1時間待たされて目もろくに合わせずにエコーをして、次の予約をとって10分程度で終わり、妊婦健診とはそんなものだと思っていた。
ところがこの産院では医師の診察に30分。エコーをみながら自分の妊娠週数の実物大胎児イラストを見せてくれて、いま赤ちゃんがどれくらい成長したのか、この時期どんな注意が必要かを教えてくれた。
自然分娩にこだわった産院で、必要のない医学的な介入は基本しないのだと言われた。そのためには、どうすれば元気な赤ちゃんを産めるか、運動や食事、そして母乳育児について自分でたくさん勉強するようにと手作りのパンフレットを渡された。
産む力を引き出すために
医師の診察のあと助産師外来が30分。初回は私と夫についてはもちろん、互いの両親や兄弟まで含めた家族についても、年齢や性格、自分との関係性など丁寧に聞かれた。職業、生活スタイル、夫の家事レベルや家事の担当はどうしているか、産後の里帰りや育児休暇の予定など、すごく細かい情報シートが作成された。
妊娠が受容できていない不良妊婦だった私は、夜遅くまで仕事をしてコンビニ弁当ばかり食べて体重が増えすぎていた。「産むのはあなただから、どうすれば自分の産む力を引き出せるか考えてみよう」
色んなアドバイスをされた後「Hiroさんどんなことならできそう?」と聞いてくれて、「週2回は具沢山のみそ汁とおにぎりを夕飯にする」と約束した。次の健診でちゃんと守れたことを伝えると、医師にも報告してみんなでほめてくれた。妊娠を受け入れられずに不安だらけで硬くなっていた心が、ここに通うたびに柔らかくほどけていくように感じた。
お産は夫婦のものだから
この産院が大切にしていること。
パンフレットには『産まれたときから母子が一緒にいる』『赤ちゃんが欲しがるたびに飲ませ、母乳で育てる』『できるだけ自然なお産を』『お父さんもお産に参加を』と書かれていた。
赤ちゃんにやさしい病院なので、産後はUNICEFの「母乳育児10か条」という方針に従って基本的には赤ちゃんにミルクは飲ませない。そのほかにも、助産院のような病院にしたいという院長の方針で、他の病院とは違う点がたくさんあった。
食事は母乳にいいと言われる野菜たっぷりの和食で、食堂にみんなが集まって食べる。退院後も病院主催のおはなし会や離乳食教室が開かれて、患者同士でおっぱいのトラブルや育児の悩みなどを相談できるようになっていた。
お産は夫婦のものなので夫は必ず立ち会うこと(実母や義母は甘えたり気を使ったりしてお産に集中できないため基本認めない)。病室はベッドではなく和室に布団が敷いてあって、産後すぐから赤ちゃんが病室にやってきて布団の隣に寝かせることになっていた。初産婦の場合は病室に夫も泊まって夜に赤ちゃんが泣いたらオムツ交換やあやすことなどを経験してもらうというルールもあった。
いのちが生まれた瞬間
夫は血を見るのが怖いと立ち会いを嫌がっていたけど、陣痛がきて病院に入院すると院長や助産師に言われるままに付き添うことになった。最後は分娩室までついてきて、手を握りながら立ち会ってくれた。
分娩台で赤ちゃんの頭が見えてからお産が進まず、心音が下がってなかなか元に戻らなくなった。この産院では基本はやらない会陰切開をして生まれた我が子は全身の色が悪く産声を上げなかった。夫の「大丈夫なんか?」という声が聞こえて、医師と助産師が慌ただしく赤ちゃんの方に動くのがわかった。何分くらいだったのだろう、時計の針が止まってしまったように長く感じながら、息子の無事をただひたすら祈っていた。助産師が管で羊水を吸ったり処置をしてやっと弱々しく産声をあげた。
その声を聴いたとき、生きてるって当たり前じゃないんだと、安堵と感謝と喜びで涙があふれてきた。夫も泣いていたような気がする。少しずつ赤ちゃんに赤みがさしてきて、分娩台の上でおっぱいを吸わせた時、息子の小さな唇のぬくもりとおっぱいを吸う力強さを感じて、子どもが生きていることを実感できた。
自分には母性がないのではないか、子どもをちゃんと育てられないかもと思っていた自分はどこにもいなくなっていた。
いまはなき産院の信念を引き継ぎたい
あの産院でなかったら、もしはあまり考えない主義だけど、それでもたまに考える。もし最初に妊娠を確認しにいった総合病院で産んでいたら、子どもを3人産みたいと思うほど母性に目覚めていなかったかもしれない。そして助産師になっていなかったのではないかと。
もう定年が近かった医師が自分の信念を私に話してくれた。「気をつけているのは主人公を間違えないということ。お産という舞台で主人公は赤ちゃん。副主人公はお母さん、脇役にお父さん。医療者は黒子にすぎない。でしゃばりすぎではいけない」。理想のケアをするために1ヶ月に産める人数は10人ほどと制限が設けられていた。
長男の出産をきっかけにお産マニアになって、お産マニアがこうじて助産師になった。医療者目線であの産院の体制を考えた時、帝王切開もできる産院としてあんなにも一人一人を大切にしたケアを実践できる体制が維持されていたことは奇跡に近いと思う。奇跡の産院は私が二人目を出産した1年後に、医師の定年でお産の取扱いができなくなった。
いま私は田舎の総合病院で助産師として働いている。お産の数は少なく、ターミナルケアやほかの科の患者さんもみる混合病棟で、お産があっても産科のケアにだけ集中できる環境にはない。特にここ数年はコロナ禍で医療体制が変化しスタッフ不足の厳しい現状となっている。
理想のケアを実現するためには、いつか開業するしかないと思っている。でもいまの現状でも、赤ちゃんを主人公にしたお産ができるよう自分に出来ることはたくさんある。毎日1mmでもあの医師の信念に近づくケアをするためにどうすればいいか考えながら、自分のミッションを果たしたいと思っている。
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