心通りの守護

皆様こんばんは!
今回は「心通りの守護」について書かせて頂きたいと思います。
親神様は心の使い方次第で御守護くださるとお教え頂いているわけでございますが、実際に心が変わるとどのように御守護くださるかを、私の経験を通して話させて頂きます。
私は2月から4月まで修養科に行かせて頂いたのですが、修養科に行く前は天理教をするつもりは一切ございませんでした。
理由は色々とありますが、一番の理由として自分の意思がなかったことでした。
高校生までは学生会に行ったりしていたので、なんとか天理教に繋がっていたのですが、大学に行ってから天理教との繋がりがどんどん薄くなり、天理教から心が離れていきました。すると大学3年の11月だったと思うのですが、その辺りから大学に通うことが出来なくなりました。大学に行こうとすると体が動かなくなりました。部活とバイトは行けたのですが、授業だけはだめでした。そして大学4年生になってもその状態が続き、留年が確定しました。その後もう1年通ったのですが、結局通いきることが出来ず、やめてしまいました。この時の私は、天理教が嫌でどうやって家から出ようか考えていました。
この時の心づかいは、親神様の思召しからかけ離れているわけです。それを私は、大学に通うことが出来なくなるという形で、見せられたのだと思います。
その後約1年間何もせず殆ど布団の中で過ごしました。そんな時に修養科の話が来たわけです。当時の心境は本当に嫌でした。ですが、何もしてないので嫌とも言えず修養科に行くことが決まりました。
その時私は、「どうせ決まったなら、この3ヶ月だけ天理教と向き合って、神様を感じなかったら天理教をやめよう。もし神様を感じたら腹を括って、生涯道一条で通ろう」と思いました。そして心定めとして毎日6度のお願いづとめをさせて頂き、「人様の身上をお寄せください。我が身はどうなっても構いません)」と願わせて頂きました。すると不思議なことに、修養科が始まって3日くらいで膝が痛くなり始め、10日で車椅子を押していくようになり、その後歩くのもままならなくなりました。
親神様は私の願い通り、身上を寄せてくれた訳です。ただ、親神様はそれだけではなく、私の事情を御守護下さいました。
私の心が親神様の思召しの方向に向いたから、ご褒美として、事情の御守護を頂けたのだと思います。
その後、起き上がることも出来ないくらいに悪化したのですが、その時に当たり前の楽しさ、ありがたさを、この身を持って体験し、その後親神様に感謝を申し上げるようになりました。するとその日を境に、どんどん良くなっていき、不思議な御守護を頂きました。
心の向きがお道の方に向き、心づかいが親神様の思召しに適ったから御守護いただけたのだと思います。
御守護頂いた直後、大亮様とお話する機会があり、私の出来事をお話させて頂くと「心通りに御守護頂けたね」と言っていただきました。詰所に帰り教養掛の先生にこの事を伝えると、東大教会の130年祭の時に大亮様がお入り込みした際、お書き下されたお言葉が「心通りの守護」とのことでした。また、今度新しくリーフレットが出るのですが、そのテーマが「心通りの守護」だそうです。ここまで「心通りの守護」というワードが続くと、親神様が私に今一番伝えたい言葉なのかなと思わせて頂きます。
人間という生き物は、あるものには何も思わず、無いものばかりに目が行きます。それは、あるものが自分にとって当たり前であり、有り難さを感じないからです。無いものに目が行くのは、当たり前のものではないから目が行くのだと思います。
最後になりますが、皆様には無いものに目を向けるのではなく、あるものにまず感謝をし、その感謝を親神様に伝えて頂きたく思います。朝目が覚める。体が動く。そういった普段当たり前の事に感謝をし、その感謝の気持ちを親神様に伝えて下さい。そうすることで心が自然とお道の方向に向き、その姿を親神様が喜び、より良き方向へと御守護くださると思います。
拙い文章にお付き合い下さりありがとうございました。

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