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エモくて何が悪い?

ギャルの逆ギレみたいなタイトルになってしまったのはさておき。

現代社会は経済に覆われており、それは価値を中心に構成されている。というのは無教養な私から見ても分かる。

その、時代の変わり目に産声を上げた競争社会が、特にテクノロジーの発展に影響を与えたのは言うまでもない。
脱成長と言う意見もあるが、やはり便利さには中毒性があり、今更スマホを捨て文通の時代に戻れと言われても難しい。
その成長はみるみる加速し、人間の理解を超えつつある。

では、芸術においてはどうだろうか。
個人的には、競争社会を暴走する数字という評価基準に支配されているのでは?と感じてしまう。

作品が市場にあるというのが何よりの証拠だ。
特に音楽は分かりやすい。
現代における楽曲の評価基準とは、その曲の再生数やCDの売り上げ、つまり数字である。
アーティストの夢として定番となっているのが、「音楽で食っていく」「曲をバズらせる」であるが、それは数字に支配されてなければ出てこない発想である。
では作品の良し悪しは本当にそこにあるだろうか。

葉山の海岸に沈む夕日を見たとき、エモいなと思う。
同様に、まだ世間に認知されていないアーティストを見つけたときにも、エモいなと思う。
そのエモさは数値化できず、両者を比較し優劣をつけることはできない。
私は芸術に、これを求めているのだ。

好きな曲は?と聞かれたとき、脳内の再生履歴を開き、一番好みの曲をピックアップするだろう。
その際のフィルタリング条件として、「共感できる歌詞」「心地良いリズム」などが挙げられるが、そこに「社会からの評価」は含まれない。
勿論、毎週ヒットチャートで上位に鎮座する楽曲やアーティストも才能を持ち、評価に疑問を持たせない作品も多いことは理解している。
だが、それらが評価されるべきは再生回数ではなく、本来の使用価値であるはずだ。

人間の美に対する感覚は、現代社会の規定する美の評価基準では賄いきれていないのだ。

その事実を認識しているアーティストは、市場を巧みに操り、現代の評価を獲得している。
認識できない、またはそれに抗う者は「アングラ」という粗末な箱に入れられて隅に追いやられている。
売れているか売れていないかの数字の勝負では負けても、心に響くか、心地よいかに勝者はおらず、比較すること自体、野暮である。

この社会で人間活動をするにはお金が必要である。
人がいるところに人が集まり、人がいるところにお金が集まる。お金があるところにお金が集まる。
アングラのアーティストが生きていくためには自己に内在する「美」を捻じ曲げ、ヒットチャートに寄らざるを得なくなる。

今回は音楽を例に挙げたが、他のジャンルにも当てはまるだろう。
だが、ヒップホップのルーツは資本主義の成長と共にあるので、ブリンブリンを身につけ、スーパーカーでスクスクするのを美とする場合もあり、全てにおいて当てはまる訳でもなさそうだ。
それに、昨今の音楽の制作にはテクノロジーが不可欠なのも忘れてはいけない。

日本語には、美しさを表現する言葉が多い。
美への感覚が繊細なグラデーションになっており、言葉で区切るのが難しく数値化も出来ない。
「エモい」も現代流の美しさの表現の一つだと考えている。
日本人の「美」への感覚は、鎖国中やそれ以前の、資本主義という概念が輸入される前に発展した古典芸術がルーツにあるだろう。
無理にテンプレを作り数字で評価をしなかった為、「なんか良いよね」を「侘び寂び」「いとおかし」「清らなり」と多様な言葉で表した。
「美」の表現は非常に繊細なものである。

その繊細さをガサツでゴツゴツした資本主義社会に預けるのではなく、作品を商品とするのではなく、制作を労働とするのではなく、
それぞれに内在する美しさと向き合い、それを真の評価とする覚悟とシステムが必要ではないだろうか。

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