短編小説『幸せ屋』(2)
部屋の中は、アパートの外装とは反してとても綺麗に整理されていた。
部屋自体は12畳ほどのリビングダイニングキッチンとなっており、机が二つ、本棚が二つ、ソファーが一つ、そしてタンスが一つある。窓際にある黒い机の上には、パソコンとオーディオ機器が並んでおり、どうやら仕事はここで行っている様だ。
南に面した窓からはいっぱいの日差しが入ってきており、清潔感のある気持ちのいい部屋であると彼女は感じた。
昭恵は部屋の中央にある白い机に通された。木製の硬い椅子に座るとすぐに、男が声をかけてきた。
「今日はいい天気ですねー。丁度お湯を沸かしていたところなんです。野村さん、コーヒーと紅茶、どちらがいいですか?」
キッチンにいる男の方を振り向くと、彼女はびっくりしたように慌てて答える。
「あっ、おかまいないく。…あ、いえ、紅茶をお願いします。」
男は再度微笑みながら答える。
「かしこまりました。…じゃあ、僕はコーヒーにしようかな」
淡々とお茶とお菓子の用意する男のことを後ろ目にみながら、昭恵は自らの不安が段々と解消されていくのを感じていた。
男は180cm位の高身長で、年齢はおおよそ30過ぎ位に見えた。目の下には大きなクマが見て取れる。そんなに寝不足なのだろうか。
髪の毛は自然にカールしており、穏やかな表情が印象的な、多分10人中9人がイケメンと答えるであろうルックスを携えていた。
単にイケメンだから安心したというわけではない。彼が持つ角のない丸みを帯びた雰囲気は、同じ空間にいるだけで心地がいい様な気分にさせられる。
そんなことを感じているとお湯が沸いたらしく、それを注ぐと、二つのカップを持ちながら男は彼女の目の前に座った
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
昭恵は出された紅茶を一口飲み、恐る恐る男の方を見る。その様子を見ると、男はまだ若干緊張が見て取れる彼女に向かって優しく話しかけた。
「そんなに緊張なされなくても大丈夫ですよ。ただのクマの酷い幸せ屋ですから」
「は、はい」
「あらためて、初めまして。幸せ屋をやっております橘和泉と申します。よろしくお願いいいたします。」
「野村です、、よ、よろしくお願いします。」
「はい、よろしくお願いします。…あっ、お菓子どうぞ。このお菓子、先日友人からもらったんですけど、なかなか美味しいんですよ。多分、紅茶にも合うとおもいます。お菓子をつまみながらでも、詳しい話を教えてください」
「はい」
昭恵は勧められた通り、お菓子を一口食べた。
「依頼は息子さんに関してでしたね」
「はい」
「メールで一度説明をもらいましたが、もう一度最初から詳しいお話をいただいてもよろしいですか?」
昭恵は紅茶を、一口、二口と飲むと、小さく深呼吸をして話し始めた。
「はい
私には高校3年生になる息子が一人います。
父親は3年前に病気でなくなりました。
その父親の影響で、息子は小さい頃から野球にはげんできました。父親が死んだ時はひどく落ち込んで、一時は野球をやめてしまうかと思いましたが、立ち直り、高校からよりいっそう頑張って、ついにこの春にエースとして県大会の準決勝までいったんですが、そこで肘をこわしてしまい、試合にでれなくなり、チームも敗退しました。
そこから息子は変わってしまいました。努力家でまじめで明るい性格をしてたんですが、万引きをしたり、学校にもいったりいかなかったりするようになりました。
もちろん私も怒ったり、慰めたり、出来ることはしたつもりですが、3ヶ月経った今は、もうどう接したらいいかわからないほどの状態になってしまってます。
私はわらをもつかむ気持ちで、インターネットで息子を助ける方法を調べました。
…そんな時に、見つけたんです。幸せ屋さんの事が書いてあるブログを。」
「なるほど…それで、勇気をもって来ていただいたんですね。」
「はい…みんな、幸せ屋さんに相談してから全ての問題が解決されて本当に幸せになったと。とても信じられないし、詐欺だったらどうしようかとも思いましたが、もう他にたよるとこがなくて…」
彼女の話を真摯に聞き終わると、男は優しく答える。
「わかりますよ」
その柔らかな言葉に昭恵は、自らが失言してしまったことに気づき、慌てて言葉を返す。
「す、すみません。私とても失礼なことを…」
「いえいえ、大丈夫です、こんな訳のわからない店、胡散臭く思わない方がおかしいですよ」
そう笑顔で答える橘を見て、昭恵もこの日初めての笑顔を見せた。
「皆をみんな、100%助けることなど出来ませんし、そんな力もありません。僕は神ではないのです。ただ、助けたいと思い、全力を尽くすことは誓います。
…野村さん。これから私は息子さんその周りの人たち、もちろん野村さんも含めて幸せにできるように頑張ります、少々おまちいただけますか? 」
「はい」
「ありがとうございます。メールでお伝えした通り報酬は成功しだいの後払いでかまいません。その成功かどうかも私ではなく野村さんの判断でお願いいたします。」
その後二人は、1時間程その部屋で雑談をしていった。料理の話、花の話、音楽の話、昔話。二人は性別も年代も違っていたが、話は不思議と弾んだ。
というよりは、橘の持つ会話の引き出しの多さと、それに伴う受けと返しの絶妙な塩梅が、野村昭恵を饒舌にさせていた。
決して普段は口数が多い方ではない彼女だが、この時ばかりは家庭の事情を忘れ、久々に晴れ晴れとした気持ちでお喋りを楽しんでいたのだった。
その事実がより一層、この後自宅に帰る彼女の心を重くさせたのだったが、いずれにしても野村の心が平静に戻れるかどうかは、この“幸せ屋”と名乗る一人の男に一心に預けられるのみであった。
野村昭恵が帰路につき、橘はベランダに出て一服をし始めた。
東京オリンピック決定後からの国家的印象改善運動であったり、数年前のコロナウィルスの一件もあり、タバコを吸うことが全国的な悪と認識されていた世の中ではあったが、彼は変わらずに十年来の相棒であるアメリカンスピリッツを吸っていた。
無論、お客に悪いイメージを与えない様に、匂いの管理は徹底して行っている。彼は二本目に火を付けながら、ぼんやりと今後のプランについて考えた。
そもそも、何故彼がこのような事をしているのか。
野村は聞いてこなかったが、聞きたがりのお客も偶にいる。その場合、彼は嘘を付いたり場を濁したりして切り抜けるのだが、彼にも彼なりの事情があった。その理由は話せるものではないし、もし話したとして聞いた方も対処に困るであろう。
「さってっと、行くかー」
タバコを吸い終わると彼は全身を伸ばしながらそう気合を入れ、外出の準備に取り掛かっていった。