アメリカ人のハイヒール #1
ある朝出勤すると、長髪の男が盛大にラーメンをぶち撒けていた。
辛いタイプのラーメンだったらしく、床にもソファーにもテーブルにも、殺人現場のように赤い汁が飛び散っている。
「くそっ、最悪だ」
わたしは足早に受付の横を通過しながら、朝ごはん用に買ったパンの入ったコンビニの袋とカフェラテのカップをカウンターの上に滑らせて、カフェスペースの一番奥へ急いだ。
「大丈夫ですか?」
真っ赤に染まったチノパンにぐんなりと横たわっている麺を丁寧に指で摘み上げていた男は、最後のひと塊を空っぽになったカップの中に運び終わって、やっと顔を上げた。
「ああ、すみません、何か拭くものを」
艶のある黒の長髪、ぴったり狙い通りに焼けたトーストみたいな色の肌、軽くわたしの5倍はありそうな二重幅。
偏見だけど、朝からカップラーメンを啜っているような顔じゃない。こういう顔の人には、海辺でアサイーボウルでも食べていてほしい。
「脚、火傷とかは?」
倉庫から搔き集めてきたゴミ袋とモップと雑巾を渡す。
「ありがとう。いや、幸い動画に集中してる間に冷めていたから、大丈夫だ」
何から突っ込んでいいか分からなくなって、「あの、めちゃくちゃ面白いです」と少しだけ笑ってみた。大丈夫。一時停止されたYoutubeの画面を映しているiPadが無事なことも、ちゃんと確認した。
ゆっくりこちらに向けられた大きな目に吸い込まれてしまいそうなって、あ、これは距離の詰め方を間違えたかもしれない、と一歩出した右足が後悔し始める。
「本当に面白いよ。二本しか持ってないパンツのうちもう一本が、今洗濯中なことも含めてね」
男が広大な二重幅をさらに広げて、口角を少しだけ動かした。右足がほっと気を抜いて、足裏に地面を感じた。
「あの…もしシミ取りのスプレーとかあれば、それで拭いたほうがいいかもしれない。ソファーのところ」
隣の席で本を読んでいた女性に声を掛けられて、初めて誰かに一部始終を観察されていたことに気づいた。見るとベージュ色の生地に格好悪くオレンジ色の模様ができている。わたしが悪いことをしているわけではないのに、なんだか恥ずかしくなって目を逸らす。シミというのは、どうしてこんなにも人を心疚しい気持ちにさせるのだろう。
「そうですね。シミ取りスプレー…あるのかな。ちょっと探してきますね」
手に持っていたモップをラーメン男に託して、もう一度倉庫へ向かおうとした時、
「4階の収納棚の、トイレットペーパーの左らへん」と声がした。
「え」
「前にカレーの皿をひっくり返したことがあって」
ラーメン男じゃない、ぶち撒け男だ。まるで「前にここのカレー屋に行ったことがある」と言うかのような顔をしている。
「Danroにはいつから?」
「今日で3ヶ月目」
驚いた。連泊数が表示される予約管理画面には、確かにそんな数字はなかったから、数日ずつこまめに延長し続けているのだろう。
何より3ヶ月前といったら、わたしがここで働き始めるより前の話だ。経験値で言えば、従業員のわたしより先輩である。
「アイザックです。はじめまして」
「フロントスタッフの芽衣です」
握手しようと一度差し出して、まだ指にラーメンの汁が付いていることに気づいたのか「また後で。申し訳ないけど、スプレーを」と決まり悪そうに笑って手を引っ込めた。
「緑色の蓋のやつねー!」
階段を昇る背中で声を受ける。降りてきた親子とすれ違い側に挨拶し、踊り場の窓を開けた。
快晴。
今日も面白くなりそうだ。
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