カタール人の海苔巻き #2
にわか雨みたいな人だと思った。
少し前からホステルDanroに泊まっている彼女は、朝急にどこかへ行こうと思い立ち、ドーハから東京へやってきたらしい。
日中は外に出て未知の世界の開拓を楽しんでいるようだったが、夜は早めにホステルへ戻ってきて、共有スペースで他の宿泊客と団欒するのが彼女の一日のようだった。チェックイン時にパスポートを差し出した彼女の完璧な赤い爪が記憶に強く残って、もっと眠らない街を遊戯するタイプなのだと思っていたから、スーパーで買った缶ビールを片手に長期滞在のおじさんたちの宴に加わっている姿は少し意外だった。
わたしは少し離れた受付カウンターに座って、業務の傍ちらちらその様子を伺っていたが、彼女がこちらにやって来るタイミングもやはり突然だった。他の宿泊客と盛り上がっていると思ったらふらっと近寄ってきて、「ねえ、今日街でこんなもの見たんだけどこれは何なの!?」とカメラロールの写真を何枚も見せてきて、わたしが一つ一つ説明していると「じゃあ、ちょっとタバコ吸ってくるわーっ」と喫煙スペースの方へ流れていく。
突然降り始めて、突然降り止む。夏の夕立にぴったりだ。
わたしは初日に頼まれた通り、本当に1週間分の観光プラン考えさせられたし、それに彼女は簡単には納得してくれなかった。「六本木は?銀座は?渋谷は?」と名だたる観光地を並べていると、「もっとガイドブックに載ってなさそうなローカルな旅がしたい」と却下された。観光案内も一応は受付スタッフの業務範囲内だけれど、あまりの注文の多さに「知らんわ、じゃあ自分でその辺歩いてこい!」と言いたくなる。
夕立女。わたしが勝手にそう呼んでいた彼女は、マリアムと言うらしかった。
「ねえ、お姉さん。このメニューの意味教えてよ」
まただ。夏の夕方にやってきた夕立女に、昨日たまたま訪れて気に入った居酒屋のメニューを英訳してほしいと頼まれた。
「何食べてもホンッットに美味しかったんだけど!何を食べたのか、全然分からなかったから」
「あの、何かが黄色いふわふわの卵に巻かれてるヤツが特に最高でさ〜!お姉さん、食べたことある!?」と嬉しそうに昨日の夜ご飯を回想している。
まだ日本にきて数日しか経ってないのに、もう居酒屋に行く友人ができたのか。そう思いながら受け取った携帯電話の画面には、手書きで書かれたメニューの写真が光っていた。
料理の絵が散りばめられていて、その間を埋めるように筆で勢い良く崩し文字が書かれていた。最近は写真に収めた文字をそのまま翻訳してくれるアプリがあるようだが、なるほど、これでは絶対に認識しない。
プリンターの中からコピー用紙を取り出して、ここに書いてあるのは何、というように照らし合わせて英語名を書こうと思ったが、やばい、全然わからない。5つ目くらいで心が折れそうになった。
魚介類が漢字で書かれていて読めないし、焼き鳥は部位がどこか分からないものが沢山あるし、大学生が飲み会で使うような居酒屋には存在しない珍味がずらっと並んでいて、全てぐるっとまとめて「この辺は珍しいもの!」と書いてやりたい。
とても訳とは言えないわたしの不完全な説明にも、マリアムは興味津々だった。カウンターに身を乗り出して、
「これは?」と「鮪ハラモ焼き」を指す。
「まぐろのどこかを……焼いたものですね」
「じゃあこれは?」次は中落ちの炙り焼き。
「まぐろのどこかを……焼いたもの?」
「お姉さん、全部一緒じゃん!!」
マリアムはハハハッと軽快に笑った。
日本食の種類の豊かさに面食らう。日本人だし、もう大人なのに。
うまく答えられないことが恥ずかしかくて、検索欄に文字を打ち込む指が汗をかく。
「あ、じゃあこれは?」
彼女は諦めずに画面の右下の挿絵を刺した。
海苔巻き。
絵ではオレンジや黄色の何が巻かれているように見えるが、何なのだろう。こんなに説明に苦戦する名前の料理が並ぶ居酒屋に、「海苔巻き」というメニューが存在することに、何だか拍子抜けした。
「これは、ご飯の中に野菜とか魚とかいろんな具材を入れて、海苔で巻いたものです」
「あーっこれ、そう言えば隣の人が食べてた。わたしは興味あったんだけど、友達がこの黒いのが苦手だって言うからやめたんだ」
彼女が「友達」と呼ぶのは、おそらく昨日チェックインしてきたアメリカ人の女性だ。
「黒い紙みたいだって、抵抗のある人は多いですよね」
「そうそう、見た目も匂いも苦手だって。死ぬわけじゃないんだし、何でも挑戦してみたらいいのにね?」
海苔が無理なら、彼女はこの居酒屋に得体の知れない食べられないものが沢山あっただろうな、と思った。
でも頷けない。
わたしが「友達」の立場でも、きっと海苔巻きは選べないような気がする。
忘れられないあの海苔巻きのことを、思い出す。
。。。
アメリカの小学校に転校した日、わたしの昼ごはんの海苔巻きはカフェテリアの一角を騒つかせた。
父の仕事の都合で渡米した4月1日は、アメリカにとってはもちろん何の始まりでもない日だった。日本人学校があるような都会ではなく、母はたった1人で近所の小学校にわたしを転入させる手続きをして、他の子供達にとっては何の始まりでもない日に、「じゃあ今日から行ってらっしゃい」と放り込まれた。
当時わたしの英語力は自己紹介もままならないレベルだったが、授業中はまだ生きていけた。先生はわたしが内容を全く理解していないことを知っていたし、問題を当てられることもなかった。算数の時間だけは余裕だなあと思って解き終わったノートに落書きをしながら暇を潰して、それ以外の時間は何言ってるのか全然分からなくて暇だなあと、また落書きをして過ごした。
それに比べて、アメリカの学校の昼ごはんは転校生にとって、まるで戦場だ。
くじで決められた席順で勝手に班が組まれ、好きな人とも嫌いな人とも強制的に机をくっつけて一緒に給食を食べさせられる日本の小学校とは違い、弁当を持参するにしろ買うにしろ全員がカフェテリアに向かう。友達がいなくてもどこかの班の一員としてその場をやり過ごすことができない。食堂には同じクラスだけでなく他のクラス、学年の生徒がみんな集まっていて、それぞれ自分の友達を見つけてテーブルを囲んで食べるのだ。
そのテーブルにはもちろん、一人席なんてない。
中学校に上がると、全生徒が一度にカフェテリアに集まると多すぎるから、個人に割り当てられた時間割に合わせて、お昼を食べる時間帯もABCグループに分けられていた。せっかく友達ができ始めても、同じグループでなければ一緒に食べることはできない。なんて過酷な環境なんだと笑ってしまうくらい、アメリカの学校の昼時は、ひとりぼっちに厳しかった。
「メイ、一緒に食べようよ」
1日目、戦場でわたしを救ってくれたのは2人の女の子だった。どうせ頷くくらいの返事しかできなかったが、わたしの返事を待たずに強引にテーブルに連れて行かれた。「仲良くしようね」というよりは、「はい、今日からあなたはわたしたちの仲間だから」と諭されているようだった。
わたしがお弁当の蓋を開けると、唐揚げ、卵焼き、ゆかりご飯の海苔巻き。
日本にいた時と変わらない中身だった。母は渡米した1日目からアジア食材店に通い、できる限りの日本食を作ることに奮闘していた。
たぶん、好き嫌いが多いわたしのために。
「何それ、食べれるの?気持ち悪いーっ」
「理解できない!」
女の子たちが交互にわたしのお弁当を指差して笑う。
「気持ち悪くない、美味しいよ」と言おうと思ったけど、「美味しい」という単語すら浮かばなくて、わたしは困った顔をしながら海苔巻きを食べた。
家に帰って、明日からお昼はサンドイッチがいいと言ったら、母は何も聞かずにわたしの願いを叶えてくれた。ジップロックに入れられたサンドイッチとりんごは、テーブルを見渡しても周りの子が持ってきているものと変わらなくて、わたしは安心してカフェテリアに存在できている気がした。
一口かじると、パンもハムもキュウリもマヨネーズもいつも食べていた味と違って、美味しくない。また海苔巻きに変えて欲しいとは言えないよなあと、甘いマヨネーズの塗られた酸っぱいパンを、口に放り込んだ。
1週間くらいたって、「いつもお昼を一緒に食べてる子達は意地悪だから、関わらない方がいい。わたしたちと一緒に食べよう」と別のグループの子がわたしを誘ってくれた。だいぶ後になって余裕ができた頃にクラスメートを観察すると、確かに2人の女の子は周りから少し浮いていた。それからわたしは彼女達と一緒のテーブルに座ることはなくなったけれど、今までありがとうと言うのも変だし、ごめんねと言うのも気まずいなあと何も言えずにいたら、何日か一緒にご飯を食べた事実が消されているかのように、それ以降向こうから喋りかけてくることはなかった。
5月の初めには、母の日に向けて授業でカードを書くことになっていた。紙に下書きをした文章を先生に見せてチェックを受けた生徒たちが、次々に机の上に広げられた綺麗な色の画用紙を選んでいく。手紙が書けるほどの単語を知らないわたしが電子辞書を駆使して何とか短い数文の手紙を書き終えた頃に残っていたのは、ベージュ、グレー、茶色、黒の、地味な画用紙だけだった。これする?と先生はベージュの画用紙を差し出したが、わたしは黒の画用紙を選んで、白いペンで文字を書いた。
伝えたいことに対して少なすぎるアルファベットが、海苔にこびり付いた米粒みたいだと、ふと思った。
。。。
死ぬわけじゃないんだし、何でも挑戦してみたらいいのにね?
自分が問いかけたことに対して、わたしの返事がないことなんて気にも止めず、マリアムは「yaki」と「aburi」の違いってなんなの〜!!と検索に必死だった。
もし彼女があの時あの場にいたら、堂々と海苔巻きを食べていたのだと思う。気持ち悪いなんて言うなと、女の子たちに歯向かっていたかもしれない。
彼女なら、周りと違うことを恥ずかしいと思わないし、自分の慣れ親しんだ領域から足を伸ばすことを怖がらない。無知を知られたくなくて、何かをこっそり検索したりもしない。
「は〜日本食って難しいね〜ちょっと呼ばれたから行ってくるわ!ありがとう!」
顔を上げてマリアムと視線の先を合わせると、長期滞在のおじさんたちが彼女を手招きしていた。今日もまた、宴が始まるのだろう。
夕立のように去っていく彼女の背中に、声を掛ける。
「美味しいですよ、海苔巻き。今度食べてみてください」
秘密基地が完成した少年のような笑顔で彼女が振り向いて、親指を立てた。
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