死のかけら
道端で、鳩の死体を見かけた。人生で、はじめてのことだった。いままで、生きてる姿しか見たことなかったから、鳩って山奥とかで死ぬのかな、とか思っていたんだ。
生き物が死んでる姿、あまり見かけられないから、たまに見ると、少しだけテンションが上がる。かわいそうだなって、一番最初に、もちろん思いますけど。平和の象徴が、日差しに照らされて、息絶えている姿に、若干の"エモ"を感じ、胸がくっと熱くなった。いい大人が、何を言っているんでしょうか。こういう自分を、恥ずかしいと思う。でも、事実だからしょうがないんだよ。ゲロゲロ。
今日は久しぶりにお会いしたお客さんに、最近どう、まだ死に取り憑かれているのか、と、冗談まじりに聞かれた。5秒ぐらい、ンーーーーギョーーーーーみたいな声を出した(長考している音)。結果、まあ最近は、多分取り憑かれていないです、みたいに答えた。ような気がする。正直、ここ1年くらい、死に囚われている時間が長すぎて、返答が分からなかった。
私は全然、毎日、死のことを考えるし、ふとしたときに、死が気にかかる。亡くなった猫と似たような柄の生き物を見かけたら、猫のことを思い出すし、亡くなった人に教えてもらった知識、脳のすきまから出てきたら、その人のことを考える。
そういうふうに、死のかけらって、日常に転がっているでしょう。少し視点を変えるけどね、私は最悪の出来事を想定しながら暮らすから、外出中は「今死ぬかも」と焦る瞬間が多いんです。目の前を歩いてる人が、無差別殺人犯だったら。そこに座ってる人が、急に大声で襲ってきたら。普通に怯えてる。それらに遭遇しない可能性、ゼロだと証明できるもの、ひとつも持っていない。そういうことじゃん。
生は死と隣り合わせだから、もはや抗えないのです。私たちは、生きることと同時に、ずっと死のかけらを回収している。もはや、取り憑かれるとか、そういう話でもないのだよ。
生にも死にも境界がないと、気づいてしまって以降、そういうことを考えていると、本当に死んでしまうような気がして、心がざわつくので、あんまり考えないように、気をつけている。今日は久しぶりに、ちょっと考えて、自分という生き物が、また少し恥ずかしいものに見えてきちゃった。今日の夕飯はテリヤキバーガーのパティ2倍です。美味しいもの食べて、またひとつ、死に歩み寄ろう。それが生きることだと思うから。早く元気になれ。BE STRONG(標語)